野村胡堂 銭形平次捕物控(巻十八) 目 次  腰抜け弥八  恋をせぬ女  弱い浪人  苫三七《とまさんしち》の娘  腰抜け弥八     一 「親分、近ごろは滅多《めった》に両国へも行きませんね」  八五郎は相変らずなんか|ネタ《ヽヽ》を持って来た様子です。立てッ続けに煙草を五六服、鉄拐《てっかい》仙人のように、小鼻をふくらませて、天井《てんじょう》を睨んで、|さて《ヽヽ》と言った調子でプレリュードに取りかかるのです。 「行かないよ。俺が両国へ行くのを、お静がひどく嫌がるんだ。昔の朋輩《ほうばい》が多勢いるところへ、亭主野郎が十手なんか持って行くのが気がさすんだろう」  平次は晩秋の薄陽を浴びて、縁側に日向《ひなた》ぼっこをしながら、八五郎の話を背中に聴いているのでした。 「つまらねえ遠慮ですね。——たまには行ってみて下さいよ。両国は江戸の繁昌《はんじょう》を集めたようなもので、年一年と言いたいが、実は一と月も見ないと、まるっきり変ってしまいますぜ」 「また、ふざけた見世物かなにかあるんだろう」 「そんなものには驚きゃしませんが、あっしが胆《きも》をつぶしたのは、——」 「広小路から橋を渡りきるまでに、昔の情婦《いろ》に七人も逢ったって話なら、もう三度も聴いたよ」 「そいつは危ない。四度目を御披露《ごひろう》するところでしたよ」 「これからもあることだ、帳面をこしらえてつけて置くんだな。——もっとも情婦《いろ》と言ったところで八のは岡惚れだ、向う様じゃなんにも知りゃしない。——竹屋の渡船の中でもうけ合い三人ぐらいは岡惚れが出来るんだってね」 「まさか、それ程でもありませんよ——ところで——と、なんの話でした?」 「呆《あき》れた野郎だ。——両国が変った話だろう」 「そうそう、広小路に巴屋《ともえや》というとんでもない大きな水茶屋が出来たことを知ってますか」 「知らないよ」 「ヘエ、呆れたものだな。銭形の親分ともあろうものが」 「それを知らなきゃ、十手捕縄御返上と言った御布令でも出たのか」 「十手捕縄には仔細《しさい》はないが、江戸の色男の沽券《こけん》に拘《かか》わりますよ」 「そんな間抜けなものになりたかアないよ」 「間抜けでもドジでも、巴屋の前を通ると大概の男の子はボーッとなりますよ。五人の若くて綺麗な娘が、声を揃えて——いらっしゃい——と来る」 「お前の塩辛声《しおからごえ》じゃ、若くて綺麗な娘とは聞えない」 「今日は一々ケチをつけますね、親分は」 「果し眼になると、お前でも怖いよ、——それからどうしたんだ」 「女の子はお半、お房、お六、お萩、祭《まつり》、——こいつは年の順ですが、二十一から十七まで、それに内儀《おかみ》のお余野《よの》が入るんだから、その賑やかさということは」 「で?」  仔細ありそうな話、平次は先を促《うなが》しました。 「赤前垂れに赤い片襷《かただすき》、揃いの袷《あわせ》でみんな素足だ。よくもあんなに綺麗なのを五人も揃えたと思うと、亭主の造酒助《みきすけ》よりもその配偶《つれあい》のお余野というのが、大変な働き者だったんですね」 「造酒助——聴いたことのある名前だな」 「坂東造酒助という役者崩れですよ。ちょいと好い男で、智恵も分別も申し分ないが、あの世界じゃ家柄がモノを言って、一生苦労をしてもうだつがあがらないと覚って、両国の広小路に三軒分もありそうな水茶屋を開き、御贔屓《ごひいき》の旦那方の後押しで、商売を始めましたよ。それが当って、近ごろは大変な繁昌だ」 「フーム」 「それに内儀のお余野というのは、三十を越した年増だが、この女は綺麗で愛嬌があって、世辞がよくて、智恵がまわる。巴屋の前を通ると、まるで吉原の中所《ちゅうどころ》の楼《やぐら》の張り見世を見るようで、その華やかさというものは——」 「それをお前は毎日見に行くんじゃあるまいな、十手を腰にブチ込んで」 「毎日は行きませんよ。せいぜい三日に二度ぐらい」 「なんにもならない、——ところでお前は、その巴屋の披露目《ひろめ》に来たわけじゃあるまい」 「実はその内儀のお余野に頼まれましたが、どうしたものか、親分の智恵を拝借に来たんですよ」 「金と智恵は品切れだよ。お酉様《とりさま》で少し仕入れようと思っているところだ」 「借りたいのは熊手にブラ下げた小判じゃありませんよ、——聴いて下さい。その綺麗で愛嬌があって、意気で、世辞の良い内儀の言うことには、近ごろ家の廻りを、変な野郎がウロウロして叶《かな》わないから、御用繁多でもあるでしょうが、三晩ばかり泊って、女の子達と昔話でもして遊んで下さい——と」 「その五人も六人もの綺麗なのを相手に、お前はヌケヌケと昔々大昔のカチカチ山の話かなんかする気かえ」 「そんな気のきかねえ話じゃありませんよ。——手れん手管の裏表、色の諸わけ——といったような」 「良い気なものだ。お前は請《う》け合い長生きをするよ」 「どなたもそうおっしゃいますが」 「ところで、その変な野郎というのは、正体を現わしているのか」 「町内の若い衆と一と口に言ってしまえばそれまでですが、中には大変なのがいますよ」 「大変と言ったところで、茶汲み女を張るような人間じゃ、たいした代物《しろもの》じゃあるめえ」  平次は茶かしながら聴いていますが、八五郎の調子には、並々ならぬものがあります。     二 「巴屋の店は両国広小路にありますが、葦簾《よしず》の浅間な店で、夜は泊るわけに行きません。そこで暮六つ〔六時〕の鐘を合図に米沢町一丁目の住いの方へ引揚げて帰るんだが、何しろお茶汲みの綺麗な娘が五人に、愛嬌ものの内儀《おかみ》が一緒でしょう。——その賑やかなことと言ったら、まるで女護《にょうご》ガ島だ」 「亭主の造酒助がいるはずじゃないか」 「女六人に男一人と来ると、男なんてものは影が薄くなりますね。——顎《あご》を撫でたりお茶を飲んだり、煙草をふかしたり、猫の蚤《のみ》を取ったり、吐月峯《はいふき》を掃除したり、それで日が暮れてしまう」 「結構な身分じゃないか」 「これだけ綺麗なのが揃っていると、塀には穴があき放題、路地は夜っぴて、喉自慢がそそるんだから、おちおち寝てもいられやしません」  若《わこ》う人《ど》達のセレナーデが、夜っぴて米沢町の路地で競演する風景は、まことに哀れ深いものがあったでしょう。 「相手は茶汲み女だ。気に入ったのがあるなら、そんな廻りくどいことをせずに、広小路の店へ乗り込んで行って、温《ぬる》い茶一杯で半日も粘《ねば》る術《て》があるじゃないか」 「そう思うのは素人量見で——銭形の親分の手前だが、情事《いろごと》にかけちゃ、丹波弥八郎や網干《あぼし》の七平の足許にも寄りつけない」 「なんだい。その黄表紙の敵役《かたきやく》みたいな名前は?」 「米沢町の講中ですよ。それにもう一人、伊豆屋の若旦那の与吉が一枚入る。三人が三人とも、昼は広小路の水茶屋で、温《ぬる》い茶を啜《すす》って半日|粘《ねば》った上、夜は夜とて——」 「夜は夜とてと来たね。八五郎の台詞《せりふ》も、この節は下座《げざ》の鳴り物が欲しくなったよ」 「茶かさないで下さい。相手は生命がけだ。ダブダブの茶腹で、夜っぴて米沢町一丁目の路地の奥に粘るんだから、深草《ふかくさ》の少将は楽じゃありませんぜ」 「フーム」 「中でも丹波弥八郎は大変で、——苗字がちゃんとあるんだから、これは二本差《りゃんこ》の子ですがね。なんでも親は歴《れっき》とした旗本だとか言いましたが、臆病でなまくらで、嘘つきで出たら目で、またの名を腰抜け弥八という——」 「変な名だな」 「剣術を教えてもモノにならず、学問を習わせても埒《らち》があかず、青瓢箪《あおびょうたん》でヒョロヒョロで、そのくせ遊芸と女が好きじゃ手のつけようはありません。幸い男女取り交ぜて八番目の末っ子で、猫の尻尾ほども役に立たないから、世間体をはばかって、表面は勘当だ。米沢町の長屋を借りての一人住い、母親が甘いから、月々の食扶持《くいぶち》だけは仕送っているが、腰抜け弥八それを良いことにして、昼は両国広小路の巴屋で、温《ぬる》い茶を飲んで半日粘り、夜は夜とて——」 「また夜とて——と来やがった」 「お隣の五人娘を、遠い物干から眺めては、爪を噛んだり、色文を書いたり、土用|風邪《かぜ》を引いたり、ハックション」 「きたねえな。そこら中|唾《つば》だらけだ」 「腰抜け弥八の土用風邪の真似に身が入ったんですよ。ところで、親分。クシャミに虹が張るのを、あっしは生れて始めて見ましたが、こいつは、金儲けかなんかの前触れじゃありませんかね」 「よい加減にしろよ、馬鹿馬鹿しい。それから腰抜け弥八はどうしたというんだ」 「さいしょは一番可愛らしい祭《まつり》が目当てだったが、この娘はたった十七で、腰抜け弥八が半日眺めていたって、まだ顔を赤らめることも知らないほどの|ねんね《ヽヽヽ》だから、張り合い抜けがして、こんどは一番|年嵩《としかさ》のお半に乗り換えた。もっとも年嵩といっても、二十一の脂《あぶら》ののりきったところだ」 「……」 「そのお半はまた、腰抜け弥八なんかを屁《へ》とも思わないから、継ぎには、お六にのり移り、それからお房に変り、近ごろは一番綺麗なお萩《はぎ》のご機嫌取りに夢中だ」 「豪傑だね、その男は」 「岩見重太郎だって、こう臆面もなくは行きませんよ。この一年の間に書いた、色文だけが三百六十五本」 「まさか」 「嘘じゃありませんよ。一日に一本書けば一年に三百六十五本、算盤《そろばん》は確かだ——そのうえ人間は大甘だが、腰抜け弥八、字は上手で、巴屋の娘達は、手習の手本にしようなどと、お互いに見せ合ったり、比べ合ったり」 「よい話だな、それは」 「これから寒くなるから、雨戸を閉めて休むからよいようなものの、夏場なんか、夜っぴてお隣の物干から覗かれちゃ、眠った気もしないそうですよ。もっとも腰抜け弥八は名前どおり物柔らかだが、漁師《りょうし》崩れの網干七平と来ちゃ、同じ口説《くど》くんでも荒っぽいから大変で」 「……」 「うっかり湯の帰りが遅かったりすると、路地の入口に待ち構えていて、いきなり抱きすくめて、頬っぺたを嘗《な》めるんだそうで」 「悪い冗談だな」 「冗談じゃありませんよ。真剣だから気味が悪い——と、これはお半の話ですがね。熊の子のような背の低い、横幅の広い人間が飛び出して来て、いきなり組み付かれると、さすがの鉄火者のお半も、しばらくは声が出ないそうですよ。ましてお萩や祭は何遍目を廻したことか」 「……」 「もっとも悪戯《わるさ》と言っても、頬っぺたを嘗めるぐらいのことが精々——いちど内儀のお余野へやった時は大変だったそうで、——いきなり頬桁《ほほげた》を二つ三つ喰《くら》わせ、胸倉を掴んで家まで引摺って来たうえ、亭主の造酒助の前で謝らせたというから達者なものでしょう」  八五郎の話は、次第に佳境に入ります。     三 「ところで、その二人はまだ罪の浅い方だが、若旦那与吉と来た日には——」 「もっと悪戯をするのか」  痴漢《ちかん》横行の歴史は、こうまでも古くして根強いものがあるのでした。 「巴屋へ来て、五文や八文の茶代に、小判を出して見せるんだそうですよ。それも一度や二度じゃない。お召の袷《あわせ》、縮緬《ちりめん》の下着をチラつかせて、雪駄《せった》ちゃらちゃらの、脳天から声が漏れるのを気にするように、ちょいと月代《さかやき》を叩いて、——どうです——などと来ると、虫唾《むしず》が走りますね」 「……」 「中低《なかびく》のしゃくれた顔、色白で、鼻声で、八文の茶代に小判で、——悪いことに、米沢町の家の板塀にのべつ穴をあけて覗くのは、弥八でも七平でも野良犬でもなくて、横山町の呉服|太物《ふともの》問屋、伊豆屋の若旦那の与吉と聞いたら、親分だって驚くでしょう」 「驚きゃしないよ。——お前だって、それぐらいのことはやり兼ねないだろう。ところで、若旦那のお目当ては誰なんだ」 「お萩ですよ、十八になったばかりなのに、この娘《こ》はまた自棄《やけ》に綺麗で可愛らしい。もう少し近きゃ、あっしも講中へ入って、毎晩あの路地に通って、良いノドを聴かせるんだが」 「お前のノドじゃ、阿保陀羅経《あほだらきょう》だって無事に転がる気遣いはねえ」 「素っ破抜いちゃいけませんよ。——ところで親分、三日ばかり米沢町へ行って、巴屋の家の方へ泊ってやったものでしょうか」  八五郎はようやく本音を吐いたのです。 「黙って行くなら仕方はないが、俺の意見を訊きたいというなら、キッパリ断わる方がよいと思うよ」 「ヘエ?」 「たいそう不足らしいが、若い女六人もの中へ入れて置くにしては、お前という人間は少しヒネリ過ぎているよ」 「ヘエ?」 「ところで、五人娘のうちでは、お萩がたいそう人気があるようだが、あとの四人はどうだ」 「あとの四人も目につくきりょうですが、中でも十八になるお萩はたいしたものですよ。こう丸ポチャで愛嬌があって、陽気で可愛らしくって、少し浮気っぽいくせに、子供のようにウブで、——」 「たいそう肩の入れようだな」 「鼻の下が短かくて、少しばかり受け口で、人をからかったような調子は、全くたまりませんよ」 「恐ろしい効能書《こうのうがき》だぜ、——あとはどうだ。日向《ひなた》ぼっこをしながら、美人の品定めを聞くのも悪くないな」 「お六というのは豪勢で、百姓娘のように達者ですが、あのまた丈夫そうなところが、ヒ弱い江戸娘より良いんですってね。物好きな旦那衆は、めっぽう可愛がっていますよ。無口で愛想っ気はないが、笑い顔にトロケるほど良いところがあるとかで——」 「鑑定《めきき》が細かいな」 「お房というのは二十歳《はたち》で、これは本当の美人ですよ。お人形のように顔の道具がそろって、御殿女中のようにしとやかで、少し淋しくはあるが、たいしたものですね。それに比べると年嵩《としかさ》のお半は、鉄火で気が強くて、色の浅黒い、キリリとした年増ですよ。きりょうは二の町だが、男を男とも思わないところが面白いんだそうで、両国ではまず人気でしょうね」 「もう一人あったじゃないか」 「祭《まつり》という娘でしょう。名前が面白いのと、子供子供しているので、皆んなに可愛がられますがね。何しろまだ十七じゃ男よりはお手玉の綺麗なのを欲しい方で」 「それで皆んなか」 「内儀《おかみ》のお余野《よの》が残っていますよ。亭主の造酒助《みきすけ》は役者崩れの手のつけようのない道楽者だが、内儀のお余野はたいした働きもので——昔はさぞ綺麗だったことでしょうが、今では|なり《ヽヽ》も構わず働いていますよ。まだ三十そこそこですが——」 「……」 「もっとも勝気でおしゃべりで、開けっ放しで、軽口の名人ですが、それが江戸一番の亭主孝行の働き者と来てるから嬉しいじゃありませんか。——金を費うほかには能のない造酒助にはこの上もない大明神ですね」  八五郎の品定めは、これで大方終りました。 「そこへお前が乗り込もうというのか。大江山に乗り込む気で行くがよい。怖いぜ」  平次は一応の注意をして置きました。フェミニストの八五郎は、また何をやり出すかわからなかったのです。     四  この小さい発端が、思わぬ事件に発展しようとは、平次も八五郎も思いも及ばなかったでしょう。  それから三日目の朝。 「サア大変だ、親分」  などと八五郎が飛び込むまで、平次は女護ガ島へ行った八五郎の、『女に対する甘さ』ばかり心配していたのです。 「頼むぜ、八、まだ朝飯前だ。大変なんか持込まれちゃ、味噌汁が喉《のど》を通らないよ」 「それどころじゃありませんよ。昨夜《ゆうべ》飛んで来ようと思ったが、あんまり遅いから遠慮して——」 「お前でも遠慮なんかするのかえ」 「独りで始末をつけ、明るくなるのを待って飛んで来ましたよ」 「どうしたというんだ」 「どうにもこうにも、これは鬼のすることですね。一番可愛らしいお萩が、お湯の帰り路地の中で殺されたんですよ」 「お萩が?」 「聞いて下さい、親分。昨夜|亥刻《よつ》〔十時〕少し前、町内の丁子湯《ちょうじゆ》へ行ったお房とお萩が、湯の中で言い争いをして、お萩は腹立ちまぎれに飛び出し、ろくに身体も拭かずに着物を引っ掛けて帰って来る途中、米沢町一丁目の暗い路地の中で誰かにひどく頭を打たれて殺されてしまいました。ちょうど、私が泊っている巴屋の前」  八五郎は一夜の不眠と、美しいものの死から受けた打撃で、すっかり興奮しているのです。 「まア詳しく話せ。——昨夜の今朝じゃ時も経っているから、あわてて駈けつけるまでもあるめえ」 「あっしは巴屋の二階に泊っていました。たいした用事もないから、宵のうちはお内儀お余野と馬鹿な無駄話をして、——亭主の造酒助は留守でしたよ。二三日前から旅に出て、今日あたりは帰って来るんでしょう——と、女房のお余野は言ってましたがネ。ともかく、話が尽きたから隣の自分の部屋へ引揚げて、これから寝ようとする時でした。路地の中——ちょうどあっしの部屋の下あたりで、蛙《かえる》でも踏みつぶしたような、ドタリ、ギャッと変な音がするから、梯子段を二つずつ踏んで飛び降りると」 「梯子段を二つずつ飛び降りは危ないな」 「でも、イヤな音でしたよ。人間一人、命を取られる音というものは、たいしたことがないようでも妙に腸《はらわた》にこたえますよ」 「それからどうした」  平次は無駄の多い八五郎の話の先を促しました。 「あっしが飛び降りると、後から内儀のお余野もつづきました。二人がひとかたまりになって外へ出ると」 「路地の中は明るいのか——こいつは大事なことだが」 「何しろ年中陽の当らない、ジメジメの路地でしょう。おまけに巴屋の前にはかなりな水溜りがあって、滅多なことでは乾きゃしません。そこで路地内の者が相談して、宵のうちは路地の入口に灯《あかり》を出して置きますがね。自身番の親爺が受持で、亥刻《よつ》過ぎには消してしまいます」 「昨夜は?」 「騒ぎのあった時は、櫓行灯《やぐらあんどん》が点いていましたよ。少し遠いけれど、灯に透して、水溜りぐらいは飛び越せます」 「そこで、その先はどうしたんだ」  しばらく灯で停頓した話を、平次はもういちど促しました。 「——飛び出してみると、その水溜りの中に、人間が倒れているじゃありませんか。お余野は尻ごみするから、あっしが飛んで行って起こしてやると、それがお萩で、頭を打ち割られて、全身|蘇芳《すおう》を浴びたようになっていましたが、もう虫の息もありません。——お余野は胆《きも》をつぶしてしばらくは傍へも寄れなかった程です」 「その辺に誰もいなかったのか?」 「お房が後を追っかけて、路地へ入って来ました。湯の中で喧嘩はしたが、たいして根に持つほどのことでなかったのか、先に飛び出したお萩のことが心配になって、そこそこに上がって来たんだそうです。それがお萩の血だらけな姿を見て、腰を抜かしたのも無理はありません」 「腰を抜かした」 「良い新造が、いきなり腰を抜かしたのをあっしも生れて初めて見ましたよ。——あれえ——とかなんとか言って、ヘタヘタと泥の中に横っ坐りになった図なんてものは滅法色気があって——」 「止さないか、馬鹿馬鹿しい」 「ともかく内儀《おかみ》のお余野を医者へやって、あっしはその辺中に眼を配りましたがね、何を見つけたと思います。親分」 「知るものか」 「路地の中にウロウロしている男——そいつは、御用ッ、と襟髪を掴むと、ヘタヘタと腰を抜かして、泥の中へ坐り込むじゃありませんか。——大の男の腰を抜かすのを、あっしは生れて初めて見ましたが」 「ひと晩に初ものを二つ見たのか。長生きするぜ、お前は」 「誰だと思います、それは」 「一々俺に訊くことがあるものか」 「あんな弱い男を、あっしは生れて初めて見ましたが」 「初ものが三つ目だ」 「これが歴《れっき》とした二本差し、丹波弥八郎という侍なんだから驚くでしょう」 「驚くものか、腰抜け弥八とお前は言ったろう。綽名《あだな》のとおり、本当に抜かしたまでのことだ。ところでお前はそれを縛ったのか」 「相手は二本差しだ。現場に通りかかったと言えばそれまでのことで、確《しか》とした証拠がないから、口惜しいが縛るわけに行きません」 「玄能《げんのう》が石っころか、——重いものを持っちゃいなかったのか」 「なんにもないから不思議で、その辺に落ちてもいず、手にも持っていないんです——それに腰抜け弥八の身体には、血が一雫《ひとしずく》もついちゃいませんよ」 「お房と弥八は、曲者に逢わなかったのか」 「お房は表の方から、腰抜け弥八は奥の方から、両花道を所作《しょさ》よろしく出て来たわけだが、二人とも誰にも逢わなかったと言うんです」 「その辺に曲者の潜り込める穴はないのか」 「下水は深い上に日蔭で湧いて腐っていますが、人間がもぐれるわけはなく、あとは一方板塀で一方は家並、猫の子の潜る場所もありゃしません」 「塀を越して逃げる術《て》はないかな」 「一刻もかかれば出来ないこともないでしょうが、忍び返しを打っているのを、ひと息には飛び越せませんよ。路地でドタリ、ギャッと言ってから、私と内儀が飛び出すまで、煙草一服ほども間を置きゃしません」 「井戸はないのか」 「ありますよ。でも、少し遠い上に、念のために覗いてみたが、恐ろしく浅い井戸で、なんにもありゃしません」 「そいつはむずかしそうだな、八」 「親分にむずかしいようじゃ、あっしにわかるわけはありません」 「そういったものでもあるまいよ。俺はちょうど手を抜けない仕事に取り掛っているし、その巴屋の女殺しを、お前一人で片づけてみる気はないか」 「あっし一人で?」 「ときどき相談に来るがよい。智恵の方はフンダンに用意してある」 「やってみましょう。あの内儀もそう言いましたが、お萩は金のかかっている身体だから、このままじゃ私がやりきれない。どんなことをしても、下手人を挙げて、その目の前で、私に言うだけの文句を言わせて下さい——ってね、金の怨みは恐ろしいじゃありませんか」 「ともかく、やってみるがよい。お前の手柄には、ちょうどよい塩梅《あんばい》だ」  こうして平次は、この事件をさいしょの出発点から、八五郎に任せてみる気になったのです。     五 「ま、八五郎親分」  米沢町へもどると、巴屋のお茶汲みの中でも、一番の年上で、鉄火で勝気で、押しが強くて口が悪いと言われているお半が、押っ冠せるように迎えるのです。 「どうしたえ、今日は店へ行かないのか」  八五郎はさり気なく応じました。 「この騒ぎの中でお茶なんか呑む客を相手にしていられるものですか。そうでなくてさえいい加減仏様臭くなっているのに」  この女は物の遠慮をしないところが、皆んなの人気を集めていると信じているのでしょう。眼鼻立は整っておりますが、色の浅黒い、口の大きい、決して美しい方ではなく、誰にも可愛がられないかわり、誰にも憎まれないといったたちの女らしく見えました。 「よい量見だ、せいぜい念仏でも称えるがよい」 「ところで親分はどこへ行っていたのさ。急に見えなくなるから、神隠しに逢ったんじゃないかと、そりゃ心配しましたよ」 「馬鹿にしちゃいけねえ、三十の大男がエテ物に攫《さら》われるかよ」 「天狗が攫わないかわり、良い年増が自分の巣へ喰い込むよ」  この女の相手をしていると、全く際限もなくなりそうです。 「ところで、ころされたお萩と一番仲の悪かったのは誰だえ」 「そういっちゃ悪いけれど、お房さんさ。お萩さんと負けず劣らず綺麗なんだから、仲の好いわけはないじゃありませんか」 「昨夜も湯屋でひと喧嘩やったそうじゃないか」 「好い女と好い女が、湯屋の流しで、取っ組み合った図は、どんなものだと思います。二人とも若くて丈夫で、負けん気なんだから、素裸で取っ組ませると、木戸銭が取れるじゃありませんか。近ごろ流行《はやり》の女角力《おんなずもう》だって、廻しぐらいはしているのに」 「何が喧嘩のもとだったんだ」 「きりょう自慢の若い同士には、男にわからない怨みがありますよ。身体がさわっても、咳払《せきばらい》をしただけでも、喧嘩の種に困りゃしない」  そういうものかな——と言った顔で、八五郎は長い顔を撫でました。 「でも、二人が張り合っている男があるだろう、——例えば、丹波弥八郎といったような」 「誰があんな腰抜け弥八なんかを張り合って、命のやりとりをするものですか」 「それとも網干《あぼし》の七平かな」 「あの熊の子をね。フ、フ、八五郎親分は人がよい。——お萩さんとお房さんが張り合ったのは、もっと好い男で、もっと近くにいる人ですよ」 「それは誰だえ」 「当てて御覧なさい」  お半は身を翻《ひるがえ》すと、追っ駈ける八五郎の手をかわして、ツイと逃げました。 「待て待て、もう少し訊くことがある」  などと、追いすがったところで、この女は八五郎の手におえません。  店へ入って、案内する者もなく奥へ通ると、内儀《おかみ》のお余野は、 「ま、八五郎親分、ずいぶん探しましたよ。親分に見放されちゃ、お葬《とむら》いも出せやしません」  いそいそと迎えるのです。 「ひと思案して来たのだよ。ところで、先刻は急いで見残したが、お萩の荷物を見せてもらおうか」 「どうぞ、こちらへ——」  お萩の死体を取込んで、ザッと飾った部屋へ、八五郎は通されました。頭を胡桃《くるみ》の殻《から》のように叩き潰されたお萩の死体は、物馴れた八五郎の眼にも凄惨で、二度と調べてみる気も起こさせません。  枕許の手習い机の上には、くさぐさの物は飾ってありますが、それも形式だけの義理一遍で、浅ましく、貧しく、そして無気味に見えるのも一種の淋しさです。  お萩の荷物というのは、ほんの行李《こうり》一つに、塗の禿げた手箱が一つだけ。それを開けてみると、思いのほか始末の良い女だったらしく、目立った汚れ物もありませんが、そのかわり冬の着換え一二枚ずつのほかには、贅沢な感じのする物は一つもありません。  それに、もっと不思議なことは、男との交渉を思わせるものが一つもなかったことです。腰抜け弥八が三百六十何本も書いた色文のうち、少なくともその半分ぐらいはお萩のところへ来ているはずなのに、それが一本もないということは、八五郎にも不思議でたまらないことでした。 「腰抜け弥八の手紙が一本もないじゃないか」  八五郎は内儀のお余野を振り返りました。 「皆んな焼いたんでしょう。汚《けが》らわしいとかなんとか、人並なことを言っていましたから」  お余野はこともなげです。 「お萩と仲が悪かったのは、お房だというが——」 「そんな評判でした。私にしてみれば、皆んな一様に金のかかった娘達ですから、贔屓《ひいき》も不贔屓もありゃしませんが、お互い同士の仲の悪いのは一番閉口ですよ」  お余野の口吻《くちぶり》は、至極公平ですが、八五郎にはやっぱりお房が一番怪しいという疑いを強めさせるだけです。  それにしても、少し遅れて路地を入って来たというお房が、どうしてお萩を殺す隙《すき》があったか。お萩の頭を、胡桃の殻のように叩き潰した武器はなに? 八五郎にはさて解らないことばかりです。     六  八五郎はさらに、昨夜の人の配置を調べてみました。内儀のお余野は、二階の部屋——八五郎の隣にいたことは確実で、お房はお萩の後から湯屋を出たことも確からしく、お六と祭は下の六畳で仲よく並んで休んでおり、お半はその隣の部屋に、お房とお萩の帰りを待っていたと、自分で言い張っております。  主人の造酒助《みきすけ》は旅からまだ帰らず、一番物騒な網干の七平は、賭場《とば》へもぐり込んで、すっからかんに剥《は》がれたことは、多勢の証人があって疑う余地もありません。  若旦那の伊豆屋与吉は、その晩親父の代理で、仲間の参会に顔を出し、事件のあった頃は、柳橋の料亭で飲んでいたことが明らかになりました。  八五郎はここまで考えて来ると、やっぱりお房と腰抜け弥八の外には、ことごとく不在証明《アリバイ》を持っていることを承認しないわけにゆかなくなったのです。  念のため、町内の湯屋へも行ってみましたが、番台に坐っていた亭主は、 「昨夜はお萩さんとお房さんが、流しで取っ組み合いをする騒ぎで大変でしたよ。女湯が総立ちになったのは構わないが、男湯からまで弥次馬が飛んで来て、犬の喧嘩のように、面白がってけしかけるんだから、手のつけようはありません」  と、はなはだ迷惑そうな癖に、充分に面白がっている様子です。いうまでもなく、江戸の町風呂は早くから男女をわけておりましたが、まだまだ脱衣場の方はわずかばかりの隔てがあるだけで、自由に覗きも覗かれもしたのです。 「ところで、二人の帰った時刻は?」 「お萩さんはプリプリしながら、亥刻《よつ》少し前に帰って行き、それから煙草の二三服ほどもして、お房さんも帰りました」 「途中で追いつく程か」 「サア、駈け出したら追いつけないこともなかったでしょうが——」  番台の亭主のいうことは、これが精いっぱいです。  八五郎はもう一度、スゴスゴと巴屋へ帰るほかはありません。 「八五郎親分、下手人の見当はつきましたか。私はもう腹が立って、腹が立って」  それを迎えて、内儀のお余野は歯痒《はがゆ》がるのです。 「お萩の身許や請人《うけにん》はわかっているんだろうな」 「親許も請人もありゃしません。奉公人なら、やかましいお上の取締りもありますが、請人のあるのはお半とお六だけで、あとの三人——お房とお萩と祭は、内の娘分になっていますよ」 「そいつは驚いたな」  身許引受け人のない奉公人は、当時といえどもやかましく禁じられておりましたが、香具師《やし》や水商売や、——多くの人身売買業者達は、むずかしい手続きやお上の眼を恐れて、不具《かたわ》の子や娼婦達を、娘分や息子分にして、その取締りの網の目を潜っていたのです。 「もっとも、親は諸国|遍歴《へんれき》の六部でした。両国で行倒れになった時、土地の人が六つ七つの娘を拾って育て、年頃になったところで、私どもで大金を出して譲り受け、娘分にして育てたのです」 「ところで、もう一つ訊きたい。丹波弥八郎の色文というのを、皆んなで三百六十何本とか受取ったというが、誰がいったい何本ずつ持っているんだ。そいつを調べる工夫はないだろうかな」 「困りましたねエ。色文なんか、呉服屋の勘定書ほどにも思っていないから、もらったところで焼いたり破ったり、手を拭いたり——大事にしまって置くような、心掛けの良い娘《こ》はありませんよ」  お余野はまるっきり相手にもしてくれないのでした。腰抜け弥八が心魂籠めて書いた三百六十何本の色文も、浮気な娘達の一顧《いっこ》も買えずに、灰や泥になってしまったことでしょう。     七 「こんなわけだ、親分。殺された死骸があるのに、どう調べても殺し手がないんだから癪《しゃく》じゃありませんか。どこをどう捜してみたものでしょう」 「仕様のねえ野郎だな、せっかくお前の手柄にさせてやろうと思っていたのに」 「ヘエ」  平次はたいして忙しくもないらしく、とぐろを巻いて煙草ばかり吸っているこの頃だったのです。 「お萩はまさか雷神《かみなり》に打たれて死んだわけじゃあるめえ。なにかこう証拠らしいものを掴めないものかな」 「それがなんにもないんだから口惜《くや》しいじゃありませんか」 「まず第一番に、旅に出たという主人の造酒助《みきすけ》はどうした?」 「昨日帰りましたよ。町内の衆が多勢で出かけたんだから、こいつは嘘じゃありません」 「では主人も確かに下手人ではなかったわけだ。——ところで、六人の女のうち、お前にチヤホヤするのは誰だ」 「そんなのはありゃしませんよ——少し口惜しいが」 「岡っ引を屁《へ》とも思わないわけだな」 「もっとも、内儀《おかみ》のお余野は別ですよ。長いあいだの客商売で馴れているから、妙に甘ったれた調子で引留めましたよ」  八五郎がもういちど、明神下の平次のところへ泣き込んだのは、それから三日も経ってからでした。 「亭主が戻ったら、急にそっけなくなったろう。もう用心棒も要らなくなった頃だ」 「そうでもありませんよ。あの内儀の愛嬌は性分ですね、——あんな商売は止したい、止したいと言っていますが、役者崩れの亭主が好きではじめた水商売で、内儀の一存でも止せない様子ですね」  八五郎の話は、ひどく筋が通ります。 「一人一人の様子から訊いて行こう。——先ず、お半というのはどうだ。変ったことはないのか」 「あっしの機嫌なんか取るような、素直な女じゃありませんよ。二十一だというのに、男を男とも思やしません」 「お房は?」 「好い女はお世辞のないものですね。五人のうちでは一等の美人で、なんとなくツンとしていますよ」 「お六は?」 「お世辞なんか言える柄《がら》じゃありません。もっとも無口で正直者だから、世帯は持てそうですが」 「祭《まつり》は?」 「同じ屋根の下に住んでいると、一番可愛らしい娘ですね。自分が綺麗だということさえ知らないような、——もっともまだ十七の小娘ですが」 「ほかに気のついたことはないのか」 「腰抜け弥八が、性懲《しょうこ》りもなく巴屋を覗きますが、ほかの女達は馬鹿にしきっているのに、祭だけ一人は、なんとなくあの腰抜けっ振りが良いらしく、『あの人はお気の毒だ』などと言っていますよ。おぼこ娘はあんなのが好きでしょうか、——もっとも芝居に出て来る二枚目のような、侍のくせに弱々しいところがありますがね」 「主人造酒助はどうだ」 「始めてしみじみ話してみましたが、好い男ですね。声が悪いのと、家柄がないので、役者には向かなかったそうです。三十五だというのに、あんな好い男はちょっとありませんね」 「お前よりも好い男か」 「とんでもない親分」  などと、例の長んがい顎《あご》を撫で廻す八五郎です。     八  それから二日、明け離れたばかりの朝の戸へ、 「親分」  八五郎は息せききって飛び込んで来ました。 「どうした八」  米沢町の事件は、この間から平次も神経を悩ましていたのです。 「もう一人やられましたよ。もう少し早く親分に見てもらうんでした」  八五郎はそれが口惜しそうです。 「勘弁しろ、八。お前に手柄をさせたかったんだ、ところで、誰がやられたんだ」 「お房ですよ」 「そいつは気がつかなかった。歩きながら聴こう」  平次は手早く支度をして、八五郎と一緒に、柳原土手を米沢町に向います。 「主人が帰ってから、あっしは泊るのを止しましたが、昨夜|子刻《ここのつ》〔十二時〕過ぎに、巴屋から急の使いでしょう。行ってみると、路地の中で、あの五人のうちでも、一番美しいと言われたお房が、背中を突かれて死んでいるじゃありませんか」 「誰が見つけたんだ」 「同じ部屋に寝ているお六ですよ。——ときどき夜更けに出かけるお房が、子刻《ここのつ》過ぎても帰らないので、気になって出かけてみると、あの路地の真中、——お萩が殺された場所より少し先の方で、背中を突かれて死んでいたんです」 「刃物は?」 「見つかりません」 「お房が出かけたのは」 「亥刻《よつ》過ぎだったそうです。お六に言わせると、お房は浮気者で、時々夜中に抜け出しては、男と逢引しているそうですが」 「この薄寒いのに外へ出るのか」 「内儀がやかましいので、まさか家の中へ男を引き入れるわけに行かないんでしょう」 「主人は?」 「さア、そこまでは訊きませんよ」 「よしよし行ってみたらわかるだろう」  二人は米沢町へ急ぎました。  柳原土手は朝の光の中に浄化されて、そこにはもう、辻斬りも惣嫁《そうか》も、魑魅魍魎《ちみもうりょう》も影を潜め、買出しの商人や、朝詣りの老人などが、健康な声を掛け合って、江戸の眠りを覚ましております。  米沢町の路地の中の巴屋は、二度目の兇変に静まり返っておりました。それは朝の華《はな》やかな空気の中に、不似合いな無気味さでしたが、お房の死骸はさすがに取り込んで、そこには、無残な殺しの跡が、痛々しく人の心を打ちます。 「親分、お房の死骸のあったのはこの辺でしたが——」  八五郎の指さしたのは、巴屋とは反対側の黒板塀の前のあたりで、無気味な血溜りが、湿った土の凹みに碧《あお》ずんでおります。  見上げると高々と板塀、上は忍び返しで容易に越えられそうもありません。  場所はちょうど巴屋から路地の出口へ行く半分ほどのところ、一方は完全に板塀で、一方は巴屋とほかに二軒家が、事件とはなんの関係もなさそうに、粛然《しゅくぜん》として静まり返っております。 「この二軒はなんだ、八」 「堅気の隠居夫婦が一軒。路地の入口は、表の酒屋の住居の裏ですよ」  それはおよそ、水茶屋とは関係のない人々の生活です。 「板塀には節穴がなかったのか」 「このとおり板塀に血は飛沫《しぶ》いてますが、節穴はありませんね」  八五郎の指さす板塀は、塗料こそ古くなっておりますが、見たところ節穴らしいものは一つもありません。 「この板塀の裏はなんになってるんだ」 「空地に二三軒しもたやがあるだけですよ。その一軒は、腰抜け弥八の家で——」  八五郎はそう言って、自分の口に蓋《ふた》をするのです。気がつくと路地の向うの出口、多数の弥次馬が覗いてる中に、浪人風のちょいと好い男が混じっております。それがたぶん浪人者腰抜け弥八というのでしょう。     九  巴屋へ入ると、 「八五郎親分、どうして下さるんです。子供らは皆んな脅《おび》えきっているじゃありませんか。金のかかっているのを、次々とこう殺されちゃ、私も両国の水茶屋をやって行くのが恐ろしくなりました」  八五郎の胸倉をつかみそうにするのは、内儀《おかみ》のお余野《よの》でした。 「待ってくれよ、内儀さん。こんどは銭形の親分をつれて来たから、間違いもなく下手人はわかるだろう」 「まア」  内儀は今更らしく眼を見張ります。この辺の水商売の女が、銭形平次の顔を知らないはずはないのですが、恐らく面喰っているのでしょう。 「親方はいるだろうな」  平次は顧《かえり》みて他のことを言いました。 「あんまり変なことが続くので、頭痛がすると言って休んでおりますが」  内儀のお余野の言葉の終らぬうちに、少ししどけない姿の主人|造酒助《みきすけ》が顔を出しました。 「銭形の親分さん、とんだお骨折りで」 「気の毒だが、二人まで殺されちゃ、手緩《てぬる》いことでは埒《らち》があくまい。とにかく、一緒に来てもらいたいが——」 「ヘエ」 「まず第一にお房の死骸だ」 「ご案内いたします」  お房の死骸は、この前お萩の死骸を置いた場所に移されておりました。寝具も調度も至って粗末ですが、お房の美しさは、死もまた奪う由もなく、それはまことに抜群のものでした。  色白の細面《ほそおもて》で、道具のよく整った、品の良い顔立は、お萩の可愛らしさとはまた別に、両国広小路に、名物の一つに数えられたほどのことがあります。  傷は八五郎の報告したとおり、左背中の肩胛骨《かいがらぼね》の下から突いたもので、おそらく心の臓に達したものでしょう。夥《おびただ》しい血は袷《あわせ》をひたして、眼も当てられぬ凄まじさです。 「この手際はたいしたものだな八。素人だと、これは双手《もろて》突きだ。——お房は不意を喰ったのだろう」  平次は八五郎に話しかけております。 「曲者が後ろからそっと忍び寄ったとしたら?」 「昨夜は月があったし、路地は明るいはずだ、後ろから人の近寄るのを、逢引の相手を待っている気のとがった若い女が、知らずにいるはずはないよ」 「知ってる人が近寄るのを、わざと知らん顔をしているということもありますぜ」 「だが、それなら、塀《へい》に血が飛沫《しぶ》くはずはない。——黒板塀がひどい血だぜ。ところで昨夜、誰と誰が家にいたのか訊こうじゃないか」  平次は常識的な調べの順序に還ったのです。  が、それもたいして得るところはありませんでした。お半と祭《まつり》は、同じ部屋に休んでおり、お六はお房が出た後、死骸を見つける前に外へ出た様子もなく、 「私は、主人と一緒に二階に休んでおりました。——お六が路地で騒いだので、びっくりして階下《した》へ降りましたが——」  内儀のお余野が言うのです。おそらくこの前お萩が殺された時と同じように、主人の造酒助と一緒に梯子《はしご》を飛び降りたことでしょう。  念のために、お房の荷物を見せてもらいましたが、これもお萩と同様、はなはだ貧しいもので、その中には、腰抜け弥八の色文などは一通も混じってはおりません。 「お房に男はなかったか」 「このきりょうですから、なんとかいう人はありましたが、本人は堅いのと綺麗過ぎたので、別に親しくした男はなかったようです。でも丹波弥八郎様は、一時うるさく付き纏《まと》っていたということでした」  お余野はこう説明してくれるのです。 「八、外へ出てみよう」  平次は家の中の調べをきり上げて、もういちど路地へ出ました。 「見当がついたんですか、親分」 「いや、まだ解らないことだらけだが、一つ腑《ふ》に落ちないことがあるんだ」 「ヘエ?」  八五郎は首を振り振り平次に従います。 「この板塀に、お前は不思議なものを見つけなかったか」 「ヘエ、なんにもありませんね。節穴は一つもないし——血は飛沫《しぶ》いているが」 「その血の飛沫いているところだよ、——血は板塀に叩きつけたように、恐ろしい勢いで飛沫いている。ちょうど四尺ほどのところ、お房の背中のあたりだ」 「?」 「その血飛沫の中に、塀の割れ目を、裏から繕《つくろ》ったのがあるだろう、——同じような黒い板だが、その板だけは血の跡もないのはどういうわけだ」 「なるほどね」  ベットリ板塀を汚した血飛沫の中に、五分幅の二寸ほどの長さで、裏から貼《は》った繕《つくろ》いの板だけが、少しも血を受けてないのは不思議です。 「その上、繕いの板は黒くは塗ってあるが、それは煤煙を油で溶いたのではなくて、硯《すずり》で磨《す》った墨だ。——それもよいが、その繕いの板が、桐の薄板じゃないか。菓子箱かなにかだ」 「サア、大変だ」 「裏へ行ってみよう」  この発見は、平次と八五郎を勢いづけました。路地の外へ出て、隣の空地に入り、そこから板塀の裏を見ると、平次の鑑定に紛《まぎ》れもなく、板の穴を繕ったのは、桐の薄板に墨を塗ったもので、しかも留めた釘はほんの一時押えの間に合わせに過ぎず、手を掛けて引くと、なんの抵抗もなくコトリと手前へ落ちて来るのです。 「これはどういうことになるでしょう親分」 「なんでもないよ。お房がそこに凭《もた》れて、逢引の男を待つ癖を知っている者が、塀の裏へ廻って、脇差しで塀の割れ目から、お房の背中を存分に刺したのだよ——塀の割れ目のところは人を待つ者が凭れるには、ちょうど具合いが良いようだ」 「ヘエッ」 「そして曲者はお房の倒れるのを見定めて、予《かね》て用意した、桐板に墨を塗ったので、塀の割れ目を塞いだのだ」 「誰がそんなことをしたのでしょう」  平次の説明の不気味さに、八五郎も固唾《かたず》を呑みました。 「お房がここで男を待つ癖のあるのを知ってる奴だ」 「その色男は? お房を殺した下手人でしょうか」 「いやお房が殺されてるのを見て、怖気《おじけ》づいて逃げ出したに違いあるまいよ。お房の男が下手人ならそんな手数なことをせずに、お房を殺せるわけだ。ところでこの空地の奥に住んでいるのは——」 「後家のお婆さんや、無事な夫婦者ですが、一軒だけ変なのがいますよ」 「腰抜け弥八だな」 「浪人者の独り住いで、朝から晩まで色文ばかり書いていますよ」  ここにもまた、腰抜け侍の丹波弥八郎が、大きく浮かび上がって来たのです。     十 「行ってみようか、八」  平次は空地の奥の、腰抜け侍、丹波弥八郎の浪宅を指しました。 「臆病が感染《うつ》りますぜ、親分」  そんな口の悪いことを言う八五郎です。  秋の陽の一パイに射している空地の明るさに、江戸一番の盛り場の真裏に、こんなのんびりしたところがあろうとは思われない程ですが、この変化の多い町の姿や、表裏の違いの甚だしさが、明治の頃まで残った、江戸の町の秘密だったのです。  声をかけるまでもなく、浪人丹波弥八郎は、南縁に物の本を読んでおりました。その吸いついたような夢中な態度が、隣の路地に殺しがあっただけに、なんとなく空々《そらぞら》しくも見えます。 「丹波様、たいそうお精が出ますね」  平次は口をきりました。 「あ、銭形の」  これはさすがに、知らない顔も出来なかったでしょう。銭形平次の顔は、両国あたりへはよく売れている上に、先頃のお萩の殺しで、一度は八五郎に縛られそこなった丹波弥八郎とは、幾度か顔も合っているはずです。 「すみませんが丹波様、硯を拝借願えませんか」  平次は縁側の端っこに腰をおろしました。 「これでよろしいかな」  弥八郎は手を伸ばして、机の上から蒔絵《まきえ》の古びた硯箱を取りました。怪し気ながら端渓《たんけい》で、よく洗ってあるのもたしなみですが、墨は拇指《おやゆび》ほどではあるが唐墨の片《かけ》らに違いなく、筆も一本一本よく洗って拭いてあります。 「たいそうな品ですね。丹波様は書をなさいますか」 「いや、書という程ではないが、とかく手習いが好きで、剣術へ精の出ないのが、私の悪いところだそうで——」  丹波弥八郎は苦笑いするのです。なるほど、八五郎に手もなく取って押えられるようなことでは、何百石の禄をヌケヌケと食《は》んではいられません。 「お読みになっておるのは?」 「恥ずかしいが源氏だよ」  この頃の文字のある人は、今日で考えるよりは、遥かに多く、日本の古典を勉強し、それをまた、たいした自慢ともしていなかったのです。丹波弥八郎文弱に流れ、勘当されて恋文ばかり書いていたと言われるのはこういった好みのせいかもわからなかったのです。 「この硯や墨では、怖くて私が拝借も出来ません。他にザラ使いの品はございませんか」 「硯や墨に、ザラ使いも他所行《よそゆき》もないよ」  弥八郎は平次の愚かさを憐れむように笑うのです。だが、それは声のない、極り悪そうな笑いでした。  腰抜け腰抜けと言い囃《はや》されておりますが、こう話して来ると、決してイヤな男ではなく、反対にその弱々しさのうちには、なんとなく高貴な感情の持主らしい、人ざわりのデリケートなところがあって、平次などにはかえって親しい感じを持たせます。  が、この高貴さと、物柔かさが、当時の荒っぽい旗本の次男の間から、爪弾《つまはじ》きされたことは想像に難くなく、極端な無抵抗主義が因《もと》をなして、『腰抜け』という、有難からぬ綽名《あだな》まで頂戴したのでしょう。 「ところで、お伺いしますが」 「?」 「歯に衣《きぬ》着せずに、私が聞いたとおりの世上の噂を取次ぎますが——」 「あ、よいとも、——私は腰抜けで意気地なしで、母の仕送りを受けながら、恋文ばかり書いているという噂だろう」  弥八郎は先を潜ってこう言うのです。その青白い顔には、苦悶《くもん》と苦笑と、そしてほのかな軽侮の匂うのも、なかなかに含蓄《がんちく》の深い表情でした。 「まア、そんなことで」 「銭形の親分がそう思うくらいだから、世間の人がそう見るのは、誠にやむを得ないことだよ」 「……」 「実はな平次親分、私は少しばかり道楽があるのじゃよ。三十一文字《みそひともじ》だ、歌を作ると言った方が早くわかるだろう」 「ヘエ? 丹波様が」 「それも親の気に入らぬ、一つの癖であったが、今さらこの道を思い断って竹刀《しない》を握るわけにも行かない」 「なるほどね」 「それが、ここに住むようになってから、お隣り交際で、何時の間にやら、若い娘達と懇意になり、お萩と祭《まつり》に、歌を作ることを教え込み、この半歳ほど前から、折々に添削《てんさく》をしてやっているのだよ。もとよりテニヲハも整わぬ腰折れではあったが、上手も下手もその道に打ち込む熱心に変りはない」 「……」 「その歌の添削が、恋文と見えたものであろう。現に、ここにもその見本はあるが——」  弥八郎は立って、手文庫の中から五六枚の朱の入った歌|反古《ほご》を持って来て見せるのでした。 「なるほど、そう聞けば、お萩の荷物の中を調べたとき、恋文らしいものは一つも出て来ずに、朱の入った歌のようなものが出て来ましたが」  平次にとっても、この話は恐ろしいほどの衝動でした。武芸が嫌いな故に、その身分から家庭までも失った文学青年が、そのころ江戸名物の一つであった、遊女や芸子などよりは、遥かに遥かに卑《いや》しく無智なものと思われた水茶屋の茶汲女に、三十一文字の歌の作りようを教えていたということは、想像も及ばぬ不思議な事件だったのです。 「私が歌を教えたのは、祭《まつり》とお萩の二人だけ、わけても一番年の若い祭は、一番熱心で、今までに何百何千首となく作っている。お萩の方は怠けもので、お洒落《しゃれ》で気が強くて、お房と喧嘩ばかりしていたということだ。あとの女達は、一文不通で、三十一文字《みそひともじ》を綴る術《て》を教えるわけにも行かなかった。もっとも祭とお萩に、歌を習っているということを口外せぬよう、堅く口留めしていたので、お房やお六やお半は、それを私から恋文でももらうように思い込み、女心の浅ましさで、私も弥八郎から恋文をもらった、私も、私も——と、とうとう、この丹波弥八郎は三百何十本も恋文を書いたことにされてしまったのじゃ、——嘘だと思うなら、祭に訊いてみるがよい。あの娘はたった十七だが、学者の家で育てられていたので、とんだ文字のある娘じゃ」  弥八郎はそう言って、板塀の彼方、巴屋の方を見やるのでした。  銭形平次はこの時ほど、沁々《しみじみ》と敗北感を味わったことはありません。お萩の脳天を砕《くだ》いたり、お房の背後を刺したのは、どう間違えてもこの男らしくはないのです。     十一 「驚いたね、親分。あの腰抜け弥八が歌の先生とは」 「人を殺せる柄《がら》じゃないよ。それにあの桐の板に塗った墨は、膠《にかわ》のベトベトする馬糞墨だが、丹波さんの硯箱《すずりばこ》にあったのは、サラリとした、匂いの良い唐墨《とうぼく》だ」  平次と八五郎は、空地の外へ、自身番の前まで出ておりました。 「でも、歌を作るから、人を殺さないとは限らないでしょう」 「それもひと理窟だが、お萩の頭を割ったのは、どう考えてもあの人じゃないよ」 「ヘエ?」 「お前に組み伏せられた時、なんにも持っていなかったというじゃないか。その上お萩は頭を割られて死んだのに、あの男は一つも返り血を浴びていなかったとも言ったぜ」 「それは、そのとおりですが」 「お房を塀越しに刺した時だって、あの辺で、お房が男を待っているとは、塀のこっちからは見当もつかないよ」 「ヘエ」  八五郎はまさに一言もない姿でした。 「何より大事なことは、お房が路地に立って、誰を待っていたかということだ」 「そんなことなら、お六かお半が知っているでしょう」 「もう一つ二つ、わからないことがあるよ」 「どんなことです」 「お萩が殺された晩、お房とお萩は、どんな着物を着ていたんだ」 「お茶汲みですもの、装束《しょうぞく》は皆な主人のお仕着せですよ。同じ袷《あわせ》に同じ帯、後ろから見ちゃ、お房とお萩はちょいと見分けがつかない程で——きりょうも年恰好も、身体つきまでよく似ていますよ」 「祭《まつり》やお六やお半は」 「祭はまだ子供子供しているし、お六はよく肥っているでしょう。お半と来たら気性は烈しいが、骨と皮でヒョロヒョロしてまさ」 「すると、夜目遠目では、ずいぶんお萩とお房は間違えられることもあったことだろうな」 「あっしなんか、番ごと間違って怒られましたよ。お萩のつもりで、お房の肩を叩いたりして」 「もう一つ、お萩とお房は、どっちがせっかちだ」 「お房は気の短いのが自慢で——私は気が短いから——なんて口癖に言ってましたよ」 「気の長いお萩の方が、湯が早いのか」 「あの時は喧嘩した後で、腹立ち紛《まぎ》れに飛び出したんでしょう。いつも二人一緒に行っても、お房の方が先に帰って、四半刻《しはんとき》〔三十分〕も経ってから、ゆるゆるとお萩が帰りましたよ」  二人は路地の入口に立っていると、なにか買物でもあるらしく、若い祭《まつり》がチョコチョコと小走りに出て来ました。 「あ、ちょいと、お前に訊きたいことがあるとさ、銭形の親分が——」  八五郎はそれを呼び留めました。 「……」  黙って立って、脅《おび》えたような眼をしている祭。袷も帯も、例のお仕着せでなんの変化もありませんが、そう思ってみるとこの十七の娘には、どこか品の良いところがあり、他の四人の茶汲みにはない、知的なものが閃《ひら》めくのです。 「広小路の店の方はどうしたんだ」  平次はつまらないことから訊ね始めました。 「この騒ぎですもの、二三日は休みでしょう」  祭の黒い瞳には、なんの動揺もありません。 「お前は歌を詠むんだってね、すっかり見直したよ」 「あら、どこからそんなことを?」 「丹波さんがそう言ったよ」 「まア」  祭はいかにも極りが悪そうでした。 「いつ頃から始めたんだ」 「子供の時から——母に手ほどきしてもらったんですもの」 「良い楽しみだよ——ところで、昨夜、お房は路地の中で誰を待っていたんだ。お前は知ってるだろうと思うが」 「……」  歌の話が殺しの話になると、祭の表情は固くなって、急に口を緘《つぐ》んでしまいました。 「言いたくないとみえるな——では、お萩のことを訊きたい。あの女にも言い交《かわ》した男があったことと思うが、それはお前も知ってるだろう」  平次は質問を変えました。この小娘——見かけよりは賢くて慎しみ深い祭の口を開かせるのは、容易のわざではないとみて取ったのです。 「私はなんにも知りません。でも、お萩さんは、本心のしっかりした人で、そんなことはなかったと思います」 「伊豆屋の若旦那や、網干《あぼし》の七平は」 「まさか、あんな人達と」 「丹波弥八郎さんは?」 「蔭では褒《ほ》めていました。腰抜けとかなんとか言われているけれど、あんな立派な人はないって——」 「他には」 「多勢男の方が見えますが、別に」  祭の答には、さしたる掛け引きがあろうとは思われなかったのです。     十二  八五郎はもう巴屋に入っておりました。そして、一番年上のお半を、裏木戸の建物の袂《たもと》の蔭に誘い出すと、平次は心得てそこで待っていたのです。 「御苦労御苦労、なアにたいしたことじゃないんだ。お前ならこんなことに眼が届くだろうと思って呼んだのだが」 「あら、銭形の親分さん、気味が悪いわねえ。私はなんにも知りゃしませんよ」 「お萩やお房を殺した人間を訊いているわけじゃない——昨夜、この家に、誰と誰がいたか確かなことが訊きたいのだよ」 「皆んないましたよ。それがどうしたというんです」 「お房は、路地の中で、誰かと逢引するか、誰かを待っていたはずだ——が、そのお房と逢引していた男がお房を殺した人間ではないよ。お房は板塀の外の空地から、節穴越しに脇差しで刺されたのだ——解ったか、お半。お房と逢引していた男は誰だえ、お前は知ってるはずだと思うが」  平次は言葉を尽しました。 「知りませんよ——男と逢引するぐらいな肝ッ玉のお房さんですもの、相手の男を気取らせるようなことをするものですか」 「内儀のお余野さんと、主人の造酒助《みきすけ》は二階にいたと言ったね」 「それが不思議なんです。内儀《おかみ》さんはああ言いきっているけれど、主人は宵のうちに外へ出たように思いますが——」 「よしよしそれだけ聴けばたくさんだ——そしてお房は、お六が言うとおり亥刻《よつ》時分に外へ出たということだね」 「……」 「このあいだお前は八五郎に、お房とお萩は、弥八郎や七平を奪い合いはしない、もっと手近に、もっと好い男がいると言ったそうだな」 「……」 「その好い男というのは誰だえ」 「……」 「主人の造酒助のことを、お前は言ってると思うが、どうだ」 「……」 「もういいよ、お半。お前は返事をしたくないだろうが、お前の眼は——それに相違ありません——と返事しているよ。お房は昨夜も、路地の中に立って——あの板塀にもたれて、主人の造酒助が出て来るのを待っていたんだろう。造酒助はそれと逢引するつもりで外へ出ると、肝腎《かんじん》のお房は背中から刺されて死んでいた。造酒助は薄情者らしいから、胆《きも》をつぶして家の中へ引返し、女房のお余野にそっと言ったかも知れない。お余野は何もかも承知の上で、亭主の造酒助を庇《かば》い、二人は夕方から一と晩、二階から動かなかったと言っている」  平次は独り言のように言うのです。自分の自信を確かめるつもりでしょう。 「すると、下手人は誰です。親分。お萩の殺された晩は、亭主の造酒助は、町内の衆と旅に出て、間違いもなく江戸にはおりませんよ」  八五郎は躍起《やっき》となって抗議を申し込むのです。 「困ったことに、そこまではわからないよ。でも、おいおいわかるだろう」     十三 「桐の菓子箱のこわれがあれば」  平次は今はそれが頼みのようでした。 「家中を探して見ましょうか」 「いや、無駄だろう。大川はすぐ傍を流れている、脇差しは沈むだろうし、桐《きり》の菓子箱のこわれは、潮が海まで持って行ってくれるだろう」 「でも、先刻《さっき》帳場をのぞいてみましたが、汚い硯の中に、何日前に磨《す》ったか、腐って臭くなった磨りかけの墨がうんと溜っていましたよ」 「それもいちおう証拠にはなるだろうが、誰がその墨を使ったかということになると、たいした動きの取れない証拠になりそうもないぜ」  平次はことごとく悲観的でした。心の中には、かなり明瞭に、下手人の姿を思い浮かべている様子ですが、それを縛るほどの、決定的な証拠は一つもなかったのです。 「でもね、親分。桐の菓子箱なんてものは、こちとらの家や、貧乏臭い浪人の巣にはありませんよ。この辺ならまず角の酒屋か、巴屋か」 「そんなことは危ない当て推量で、証拠にはならないよ。それより外へ出て風にでも吹かれてみよう」  それはよい分別でした。外へ出ると晩秋の風が爽やかに衣袂《いべい》に薫《くん》じて、狭い狭い路地にも、江戸の裏町らしい活気は漲《みなぎ》ります。 「八、ここは年中陽が当らないだろうな」 「東から西へ抜ける路地だから、乾くのは真夏の一と月か二た月だけ——このとおり溝《どぶ》は腐ってふくれて、甘酒のようになっていますよ」 「お萩が死んでいたのは、この辺だと言ったね。水溜りがあって、飛び越すのにちょいと立止るから、そこをやられたことだろうな」 「おや、この辺の柔かい土の上に、いやに凹んだところがありますが、ちょうど人間の膝ッ小僧の跡ぐらいの凹みが、五つや十じゃありませんよ」 「子供の悪戯《いたずら》かな」  平次は上を仰ぎました。ちょうど頭の上は巴屋の二階の窓で、路地が狭いので遠慮したのか、その階下の窓には霜除けもなんにもなく、家は溝の上からきり立ったように、真っすぐに二階の窓を見上げるのです。 「悪戯かも知れませんね」  八五郎は合槌《あいづち》を打ちましたが、なにか腑《ふ》に落ちないものが残ります。 「あの上の窓は、お前が泊っていた部屋か」 「いえ、あっしが泊ったのはその隣で、あれは内儀《おかみ》のお余野の部屋ですよ」 「変なことを聴くようだが、お萩が死んだとき、一番先に路地へ飛び出したのは誰だえ」 「あっしですよ。お萩が倒れているんで、驚いて介抱していると、つづいて飛び出した内儀のお余野は、胆《きも》をつぶしたとみえて、しばらくはマゴマゴしてお萩の側へ来なかったようですがね」 「それから?」 「家中の者は皆んな飛び出しましたが、血だらけになってお萩を介抱したり、家の中へ運び込んだのは、一番若い祭《まつり》とあっし二人だけ、この家の女どもは薄情ですね」 「だんだんわかってくるよ——ところで八、この溝《どぶ》はずいぶん汚いが、中をかき廻してみたか」  平次はそのふくれ上がった溝を、気味悪そうに見ております。 「そいつを掻き廻そうなものなら、米沢町中の人間が目を廻しますよ。臭いの臭くねえのって」 「深さは?」 「二尺ぐらいはあるでしょう」 「大丈夫、入っても溺れる気遣いはないな」 「その溝で土佐衛門になった日にゃ、八大八寒地獄でも、木戸を突きますよ。そんな臭い亡者《もうじゃ》は、地獄へ通すこと罷《まか》りならぬとね」 「その溝を浚《さら》ってみようと思うんだ」 「悪い道楽ですぜ、そいつは——そのドブ板の下なんかには、蚯蚓《みみず》の主がいますぜ。一尺五寸ほどの、紫色に肥ったのが」  だが、平次は躊躇《ちゅうちょ》しませんでした。町内の人足二三人と、番太の親爺を呼んで来ると、巴屋の窓の下を中心に、さっそくドブを浚い始めたのです。     十四  路地の中は、まさに毒|瓦斯《ガス》の製造所でした。女達は悲鳴をあげて逃げ出した中に、八五郎と平次は、辛《から》くも踏み留って、指図をしております。 「誰か、財布でも落したんですか、親分」  番太の親爺は鼠をつまみながら、物好きそうに訊いております。 「いや、そんなものじゃない。財布が出たら、爺さんにやってもいいよ」 「それとも脇差しかなんか」 「そいつは大川のかい掘りでもしなきゃ出て来ないだろうよ」 「すると、何を探すんです、親分」 「重いものだよ。持ち運びの出来ないほどの」 「ヘエ、金の延べ棒かなんか?」 「まア、その気で探してもらおうよ」  平次ははっきり言いませんが、正体はもう掴んでいる様子です。 「おや、大きな石があるぜ。丸くて手掛りはよくねえから、出さずに押し込んで置け、五六貫目もあるからな」  指図をしている八五郎の号令です。 「八、その石だよ。その石が入用なんだ。路の上へ引揚げてくれ」  平次はあわてて声をかけました。 「ヘエ、驚くぜ、親分はこの石が御用だとさ。重くて臭くて丸いのはなアに——と来やがる、それよ」  人足達が路の上へ投り上げたのは、まさに使い古りた沢庵石《たくあんいし》。五六貫は確かといった、泥と糠《ぬか》に塗《まみ》れた真っ黒な丸石です。 「八、よく見てくれ。その石の凹んだところに、糠《ぬか》と一緒に血がついているはずだ」  平次は弾《はず》みきっております。 「ありますよ、こいつは確かに血だ。糠と一緒に、石の凹みにコッテリついていますぜ、——すると曲者は、この石を振り上げて、お萩の頭を叩き割ったわけですね」  八五郎は胆をつぶしてしまいました。 「やってみるがいい。その石を振り上げて人間の頭が殴《なぐ》れたら、お前は人間の人別を抜いて、天狗の子分になれ」 「すると誰です、下手人は」 「待ちなよ——巴屋の女どもはどうした」 「臭いのに驚いて、皆んな路地の外へ逃げ出してしまいましたよ」 「その中から、内儀《おかみ》のお余野をつれて来てくれ。早くだ。間違いがあっちゃいけない」 「ヘエッ」  八五郎は飛び出しましたが、ものの煙草二三服も経たぬうちに、ぼんやり戻って来ました。 「内儀のお余野は、ツイ今しがた、溝から石の上がった時、どこへともなくフラフラと行ってしまったそうですよ」 「しまった。浜町河岸か、両国橋だ。行ってみろ」  平次も八五郎も、そこにいる人足も、女どもまで飛び出しましたが、お余野の姿はどこにも見えず、二日経ってから、中洲《なかす》のあたりで、その水死体を見つけたのは浅ましいことでした。     * 「お萩とお房を殺したのは、やっぱりあの内儀のお余野ですか」  八五郎が腑に落ちない顔を持ってきたのは、ちょうど三日目、お余野の水死体を葬《ほうむ》った日でした。 「気の毒だが、思い詰めたのだよ。あのお余野という女は、付け焼き刃の空元気で、多勢の女の子を引廻して水茶屋なんかをやっていたが、あれは本心ではあの商売が嫌で嫌でたまらなかったんだ——俺にもそっと愚痴《ぐち》を言ったことがあるよ」 「ヘエ、人間の心持はわからないものですね」 「役者崩れの亭主の造酒助《みきすけ》が、あんな商売が好きで、女房の嫌がるのを無理に続けさせたんだ。そして若い女を多勢飼って置いて、それに取り巻かれていたいのがあの男の病気だったんだ」 「……」 「その上、気に入ったのがあれば、片っ端から手をつけ、近ごろはお房に夢中だったのだ。内儀のお余野は亭主とお房の間を割こうとしたが、亭主の造酒助がどうしても承知しない。親許のないお房もまた、どこへ行く当てもなかったのだろう。そこでお余野は、思いに余ってお房を殺そうとした」 「先に殺されたのはお萩じゃありませんか」 「間違ったのだよ。いつでも風呂から先に出て来るのはお房の方だし、身体の恰好《かっこう》がよく似ている上に、お仕着《しきせ》まで同じだ」 「……」 「五六貫もある沢庵石を二階に引き上げるのは骨が折れたことだろうが、前々から握《にぎ》り拳《こぶし》ほどの小さい石を落して、見当がついているから、頭の真上に落すことはわけもない。——あの晩、お前と無駄話をしてお房の帰りを待ち、潮時に隣の部屋へ行って、窓から五六貫目の沢庵石を——夜目にお房と見た女の頭に落した」 「危ないな」 「それが、お房ではなくてお萩だったので、お余野もさぞ驚いたことだろうが、お前が夢中になってお萩を介抱している間に、沢庵石を転がして溝に落し、それから騒ぎ出したことだろう——しばらくお萩の傍に寄らなかったのは、その細工があったからだ」 「ヘエ」 「お房を殺すつもりで、お萩を殺したお余野は、予《かね》て狙って置いたもう一つの手段で今度こそは間違いなくお房を狙った。まず亭主の造酒助と路地で逢引する場所を見定め、お房の凭《もた》れる塀の後ろに、節穴のあることまで調べ抜いて、亭主がお房の合図でイソイソと路地へ出るのを追っ駈け、裏の路地に廻って、節穴からお房を刺し、墨の塗ってある用意の桐板で穴を塞《ふさ》いで、両国へ廻って血だらけの脇差しを川へ捨てたことだろう」 「ヘエ、よく智恵が廻ることですね」 「恐ろしいのは妬婦《とふ》と昔からいっているよ。こうなると女の智恵は孔明楠《こうめいくすのき》だ。——それから素知らぬ顔をして家へ入ったが、亭主の造酒助は、薄々感づいても、あばき立てるわけに行かない。二人は言わず語らずの間に、お互いに庇《かば》い合って二人とも家から出ないことにしてしまったのだよ——お余野も良くねえが、それより悪いのは亭主の造酒助さ」 「そんなものですかね」 「腰抜け弥八はとんだ良い男さ——もっとも三十過ぎの大の男が、母の仕送りで毎日三十一文字を捻《ひね》っているのは、あまり結構なことではないから、早く祭《まつり》と一緒になって、一文商《いちもんあきな》いでも始めるように、祭の身柄は俺が引受けて、足を洗わせてやる——とは言ってやったが」  平次はそんなことまで苦労しているのでした。  恋をせぬ女     一 「親分、あっしはもう口惜《くや》しくて口惜しくて」  八五郎はいきなり怒鳴り込むのです。彼岸過ぎの良く晴れた朝、秋草の鉢の世話に、余念もない平次は、 「騒々しいな、何がいったい口惜しいんだ。好物の羊羹《ようかん》でも喰い損ねたのか」  一向気のない顔を挙げるのでした。 「そんな気楽な話じゃありませんよ。親分も知っていなさるでしょう、菊坂小町と言われた小森屋の娘お通が、昨夜殺されましたぜ」 「フーム」 「口惜しいじゃありませんか。あっしの岡惚れでもなんでもないが、本郷中をピカピカさした娘を、虫のように殺してよいものでしょうか、親分」 「泣くなよ、八、それにしても、向柳原にいるお前が、菊坂の殺しを俺より先に嗅ぎ出すのは、たいそう良い鼻じゃないか」 「追分に用事があって、セカセカと本郷の通りを行くと、鉢合わせしそうになったのは、台町の由松親分じゃありませんか。その由松親分が、『菊坂小町が殺されて、昨夜から調べにかかっているが、俺一人では我慢にも裁ききれねえ、銭形の親分を迎いに行くところだ』というから、あっしが引返して親分をつれ出すことになり、由松親分はそこからまた菊坂の現場へ引返しましたよ——」  八五郎は言葉せわしく説明するのです。 「よし、台町の由松親分の頼みなら、行かざアなるめえ」  平次は手早く支度をして、菊坂町へ飛んだのです。  お通の父親というのは、小森弥八郎というかなりの分限者《ぶげんしゃ》で、昔は槍一筋の家柄であったと言いますが、今では町内の大地主として、界隈《かいわい》に勢力を振い、娘のお通の美しさとともに、山ノ手中に響いております。  小森屋の住いもまた、町人にしては非凡の贅《ぜい》でした。菊坂の坂上に建てたコの字型の建物で、玄関や破風《はふう》や長押《なげし》をはばかった町家造りには違いありませんが、それを内部の数奇を凝《こ》らした贅沢さに置き換えて、木口も建具も一つ一つが人の目を驚かします。 「銭形の親分」  主人の弥八郎はいちおう平次を迎えましたが、激しい心の動乱に、急には言葉も出ない様子です。五十前後のすぐれた人品で、江戸の分限者らしい中老人ですが、こうした知的な見かけのうちに、案外の情熱を持っているのかもわかりません。 「とんだことでしたね、小森屋さん」  平次もこれは知らない顔ではありません。 「親分、あの神様のような娘を、——あんまりひどいことをするじゃありませんか。どんなことをしても、敵《かたき》を取って下さい、お願いです」  日頃の傲慢《ごうまん》さに似ず、打ち萎《しお》れた父親の姿は、見る眼にもあわれでした。  娘お通の殺されたのは、母屋《おもや》と中庭を隔てて相対する廊下つづきの六畳の一と間で、それはお伽噺《とぎばなし》の姫君のような、可愛らしくも美しいものです。母屋に向いた北側は丸窓で、南は総縁、その外は板塀で、板塀の下は崖になっており、崖の下には折り重ったように町家がつづいております。  母屋から廊下伝いに、娘の部屋へ入って行くと、親類の小母さん方が二三人、湿っぽく死骸のお守りをしながら、何かと葬いの打ち合わせをしておりましたが、平次と八五郎の姿を見ると、入れ替りに、コソコソと母屋へ引揚げてしまい、主人の甥の鉄之助という、頑丈な三十男だけが、案内顔に縁側に立っております。  床の上に横たえた娘お通の死骸の痛々しさは、さすがの平次も息を呑みました。やや柄《がら》の大きい、色白の、さながら崩れた大輪の牡丹を思わせる美しさです。生前本郷中をカッと明るくしたという、不思議な愛嬌も、今は見る由もありませんが、十九というにしては、見事に成熟した肉体の魅力は、死もまた奪う由のない美しさです。 「ひどい事をしたものですね、親分」  後ろから首を長くして、八五郎は口惜しがるのです。 「傷は、前から一ヵ所、右の胸元を、単衣《ひとえ》の上からやられている」  心臓をひと突き、おそらく若い娘は、声も立てずに死んだことでしょう。 「胸にこれが突っ立っておりました」  甥の鉄之助は、部屋の隅から、手拭いに包んだ真矢《ほんや》を一本持って来て見せました。鷹の羽を矧《は》いだ古い征矢《そや》ですが、矢の根がしっかりしており、それがベットリ血に塗れて、紫色になっているのも無気味です。 「これでやったのかな」  顔を挙げると、母屋に向いている北側の丸窓の障子に、一ヵ所矢でも突き抜けたような穴が明いており、娘のお通が丸窓の下の小机に凭《もた》れていたとすると、障子越しに射た矢が胸に突っ立って命を取ることも考えられます。     二 「この矢はどこに置いてあったのだ」  平次は甥の鉄之助に問いかけました。 「靱《うつぼ》に入れて、母屋の床の間に立てかけて置きましたが、弥太郎が玩具にして困るので近頃は柱にかけて置くこともあります」  鉄之助はなんの淀みもなく答えます。三十にしては分別臭い方で、男前は不景気ですが、人間は思いの外しっかりものらしく、受け答えはまことにハキハキしております。 「弥太郎という——と?」 「お通の弟で、今年六つになる悪戯者《いたずらもの》ですが」  それは鉄之助には従弟に当るわけです。 「昨夜のことを、もう少し詳しく聴きたいが」  平次はこの男に水を向けました。こんな調子の男は、自分の賢《かし》こさに圧倒されて、あんがい余計なことをしゃべりたがるものです。 「戌刻半《いつつはん》〔九時〕過ぎでした。お通は自分の部屋に引込んで、なんかやっていたことでしょう、丸窓の灯は見えましたが、母屋からはなんにも見えなかったのです。時候にしては暑い晩でしたが、丸窓は滅多にあけたこともありません」 「……」  それは若い娘のたしなみだったでしょう。 「お通は細工物が好きで、隙があると自分の部屋に引籠《ひきこも》りたがりました。ここには弟の弥太郎と二人寝ておりますが、弥太郎はまだ母屋で遊んでいて、寝ようともしなかったので、父親に小言を言われておりました」 「母屋には誰と誰がいたんだ」 「叔父と、手代の正次郎どんと、私と、下女のお照と、それからお通の弟の弥太郎がいたはずです」 「皆んな顔が揃っていたことだろうな」 「店へ行ったり、戸締りをしたり、小用に立ったり、顔が揃うといっても見張っていたわけではございません」 「人数はそれっきりか」 「他に小僧の友吉というのがおります。遠縁の者で、十七になる子ですが、早寝の早起きで、その時はもう、自分の部屋へ潜っていたようで、顔は見えませんでした」 「ところで、お嬢さんはこのとおりのきりょうだから、さぞなんとかいう男も多かったことだろうな」  平次は当り前の調子で、大事の点に触れて行きます。 「それはもう、従兄妹同士の私が呆れているくらいですから」 「というと」 「お通が外へ出ると、町中が騒ぎでしたよ。振り返るもの、跟《つ》けて行くもの、——第一、塀は穴だらけで、どんなに繕《つくろ》っても、三日とはもちません」 「で、その多勢の若い男の中で、お嬢さんが特に親しかったのは?」 「それが無いから不思議じゃありませんか。身内のほかには、親しく口をきいた男も無かったようです」  身内の一人の鉄之助が少しは誇らしい心持らしく、語気を強めてこう言うのです。 「良い女はそういったものですね。男に白い歯を見せるのは、大した不見識《ふけんしき》なんですね」  八五郎はわかったような事を言うのです。 「ところで、南側の塀の外には、どんな人が住んでいるんだ」 「御浪人の小林習之進様母子で」 「その方とは付き合っていることだろうな」 「お隣ですから、今朝も、お母さんのお世乃《よの》さんは朝から来て手伝っているようです」 「御主人の習之進さんというのは?」 「まだ若い方で、二十二三でしょうか、口数の少い、おとなしい人ですが、お通にはことのほか執心なようで、ヘッ」  鉄之助は場所柄も弁《わきま》えず、妙な苦笑いを噛み殺すのです。恐らく、板塀の穴の秘密は、その辺に潜んでいると思い込んでいるのでしょう。 「で、昨夜のことを、もう少し」  平次は話題を元に戻しました。 「亥刻《よつ》〔十時〕近かったと思います。遊びに夢中になっている弥太郎をつれて、下女のお照がこの部屋に入ってみると——」  鉄之助はゴクリと固唾《かたず》を呑みます。その時の騒ぎを思い出したのでしょう。 「?」  平次は黙ってその後を促しました。 「お照が悲鳴をあげたので、驚いて飛んで来ると、お通が丸窓の前の小机に凭《もた》れたまま、俯向《うつむき》になって死んでおりました。その辺は一面の血の海です」 「たしかに丸窓の方を向いて」 「間違いはありません。胸には矢が突っ立っておりました」 「矢は小机が邪魔になって、胸に立ったままでは俯向になれないはずだが」 「身体が少し斜めになって、矢は小机の上に|しな《ヽヽ》っておりました」 「それにしても、血はひどかったはずだが——」 「単衣も畳も大変でした」 「それでよかろう。ところで、家中の者に一人一人逢ってみたい。誰からでも構わないから、ここへ呼んでくれないか」 「ヘエ、では」  鉄之助はようやく放免されたような心持で立去りました。     三 「八、お前はこの傷口を不思議とは思わないか」  平次は死体の胸をはだけて、娘の張りきった乳の下に、無残にも肉の|はぜ《ヽヽ》た傷口を見せるのです。  それは真珠色の世にも美しい肌でした。死の浄化にいくらか蒼白くはなっておりますが、乳房の弾力的な曲線の魅力は、まさにロダンの大理石像に見る、冷美といってよいものでしょう。 「少しも不思議はありませんね。矢は引っこ抜いてあるが——ほかに傷でもあるんですか」 「いや、無いから不思議なのさ」 「ヘエ?」 「矢の傷にしては、大き過ぎるのだ。これではまるで鏑矢《かぶらや》で射られたようじゃないか」  そういえば、傷は矢の根に比べて、少し大き過ぎるようです。 「ヘエ、そんなことがあるんですかね」 「それに、丸窓の障子の穴も変だよ。矢が入った穴ではなくて、これは矢の出た穴だ」 「?」 「いろいろ解らないことがありそうだが、ともかく、こんな可愛らしい部屋で、細工物なんかしている娘を、ひと思いに殺すのは罪が深いな」  取り散らした小切れ——赤いの青いの紫の、色とりどりの品は、ひと纏《まと》めにして、部屋の隅につくねてありますが、それを染めて班々《はんぱん》たる乙女の血は、平次の心を暗くさせます。  鉄之助は母屋へ行って、さいしょに誰をつれて来る気でしょう。それがきまる前に、 「おや、銭形の親分、さっそく来てくれて有難いが、下手人はどうも、あの甥の野郎らしいぜ」  庭口から顔を出したのは、台町の由松という、中年者の御用聞でした。 「あの鉄之助がね、——今までここにいたんだが」  平次は腑に落ちない顔をしております。 「町内を一と廻りして、噂《うわさ》をかき集めて来たが、この娘の人気は大したものだね」 「……」 「ことに、南隣の浪人者の小林習之進という武家などは、若いせいもあるだろうが、命がけの惚れようだ。手を変え品を換えて、口説きもし、人を頼んで縁談を持込みもしたようだが、お通さんがあのきりょうで、玉の輿《こし》に乗る気だったか、見向きもしなかったというよ。それに父親の弥八郎も、元は武家の出だけに、武家の内輪をよく知っているから、貧乏浪人をゲジゲジほどいやがっていたというぜ」  由松の話はとんだ方へそれて行くのです。 「で?」 「結局、娘が綺麗過ぎて、片思いの男が町内だけでも二三十人いるから、殺し手が多過ぎて困るが、弓で射殺されたとなると、矢は母屋から射込まれたに違げえねえから、従兄妹《いとこ》同士のくせに、お通に夢中になっている鉄之助の外には下手人はないことになるよ」 「なるほど、それも、ひと理窟だが」  平次は由松の話を半分聞いて、立ち上がると庭下駄を突っかけて、南縁から板塀の方に近づきました。  連日のお天気で、庭はよく踏み固められ、内側には足跡もなんにも見えませんが、庭の隅の方の板塀に、三尺の切戸があり、厳重に海老錠《えびじょう》がおりているのを見ると、平次はしばらくそれを揺ぶっております。 「おや、おや」  錠は厳重に見えておりますが、肝心の輪鍵の根が腐っているので、それはわけもなく抜けて、切戸はスーッと開くのです。  外は崖、崖の下は町家、その一番近いのは浪人小林習之進の家で、気をつけて見ると、切戸への間の崖は、木下闇になって、湿った土の上には、明らかな足跡があり、少し行くと雑草を踏んで、かなりはっきり道が付いております。おそらく小森屋の方からはこの切戸は使わなかったことでしょうから。お通を目当ての深草の少将達が、ここへ押しかけて夜な夜なセレナーデを奏したことでしょう。  平次はそこまで見窮《みきわ》めて、元の部屋に引返すと、鉄之助は一人の少年を背中から押しやるように、部屋の中へ押し込んでおりました。 「これは小僧の友吉で、柄は大きいが、取って十七でございます」  鉄之助に紹介されると、少年友吉は、間の悪そうに顔を伏せました。なるほど、十七というにしては、柄も相当ですが、色白で目鼻立ちが尋常なくせに、どこか愚鈍らしさがあります。 「昨夜の騒ぎのとき、どこにいたんだ」  平次はこう問いました。血潮の汚れを除けて、膝小僧を揃えた友吉は、高名な御用聞に対して、少し顫《ふる》えている様子です。目の鈍い、毛の濃い、正直者らしいところは取柄ですが、決して人に好感を持たせる少年ではありません。 「お勝手の隣の、自分の部屋で寝ていました。昼のうち五六軒歩いて、眠かったんです」 「何時でも、そんなに早く寝るのか」 「いつもは亥刻《よつ》に寝ることになっています」 「お前は、此家《ここ》の遠縁だそうじゃないか」 「え、親父がそう言っていました。だから請人もなんにも要らないが、我慢をして、追い出されちゃならねえ——って」 「いつから奉公しているんだ」 「三年になります」 「お嬢さんをどう思う」 「……」  平次の問いが突然だったので、友吉は少年らしくパッと赤くなりました。 「口をきくことがあるのか」 「同じ家におりますから」 「お嬢さんは親切だったのか」 「……」  友吉は黙ってしまいました。二つ年上ですが、少年友吉に取っては、お通は雲の上の存在だったのです。 「お嬢さんを怨《うら》んでいる者はなかったのか」 「怨んでいる者なんか、ありゃしません、でも——」  それっきり友吉の言葉は、プツリと切れてしまいます。少年の心持は、平次にも捉《とら》えようはないことでしょう。     四 「次は下女のお照で」  鉄之助が連れ込んだ二人目は、山出《たまだ》しらしい二十六七の女でした。田舎縞の袷《あわせ》に、浅黒い顔、素朴ではあるが健康そうで、なんとなく頼母し気なところがあります。  昨夜のことから訊くと、 「皆んな顔の揃ったことはありませんが、ともかく店の方にいたようで、母屋からこちらのお部屋へ来た人はなかったようです。庭の植込みを潜《くぐ》れば別ですが、廊下伝いに来るには、お勝手か旦那様の部屋の前か、どちらかを通らなきゃなりません。お勝手には私がいましたし、旦那様のお部屋には旦那様が、手代の正次郎どんと一緒に、夕方からズーッと帳合いしていたようで」 「すると、曲者は外から入ったに違いないということになるのか」 「私はそう思いますが」  この女はそう信じきっているようです。身扮《みなり》の粗末なのに似ず、なんとなく確《しっか》りものらしいところがあります。 「甥の鉄之助はどこにいたんだ」 「店にいたようです。坊ちゃんと遊んでいたようで、——その坊ちゃんが、遊びが面白くなってなかなか寝てくれないので弱りました。ようやく寝ると言い出したのは亥刻《よつ》近い時分で、私がお嬢様のお部屋へ連れて来ると、あの有様で」  その時の驚きの凄まじさが、お照の無表情の顔にも見られるのでした。 「裏の小林さんとかいう御浪人が、お嬢さんへうるさくしていたそうじゃないか」 「本当に、お嬢さんはそればかり嫌がっていました。——あの人は武家だから、いつでも刃物を持っているし、思い詰めると、何をやり出すかわからない——とこぼしていたことを知っております」  お照の言葉には、容易ならぬ暗示があります。 「お嬢さんの好きな人はなかったのか」 「さア」 「あの年頃だ、少しは気に入った相手というものがあるだろう」 「それは世間並みですが、お嬢さんは見識が高くて、滅多な男を寄せつけませんでした。綺麗に生れつくと、情がこわいんですね。もっとも友吉どんは別でした。あの子は年も下だし、才はじけた方でもなし、子柄だって良くも悪くもないし、お嬢さんの気に入るはずはないのですが、どこか一国《いっこく》で正直で、お嬢さんの言うことは、どんな無理でも聴きましたし、お嬢さんが、馬鹿にしながらも可愛がったのは、無理もないと思いました」 「甥の鉄之助は?」 「従兄妹同士のくせに、お嬢さんに嫌われておりました。少し遊び過ぎて、女を玩具《おもちゃ》のように思っているくせに、口前だけ上手だったので、生娘のお嬢さんには、その腹がわからなかったのでしょう」 「手代の正次郎は?」 「通いで、女房持ちの四十男ですもの」  お照は簡単に片づけてしまいます。  三人目はその噂の正次郎、卑屈で、醜男で、算盤《そろばん》には賢いでしょうが、色恋とはあまり関係が無さそうです。それに昨夜は主人の弥八郎の部屋で、月末の勘定の手伝いをしていたので、お通の殺しとまったく縁がないわけです。  残るのは主人の弥八郎と、倅の弥太郎だけ、その主人の弥八郎は、掌中《しょうちゅう》の花といつくしんだ娘の非業の死に、ことごとく打ち萎れてしまって、何を訊いても埒があきません。 「娘は——親の口から申しては変ですが、男の出入りはなかったはずです。世間にはいろいろの人があって、ずいぶんうるさい事もありましたが、その中に娘を殺そうとする人があったとは思われません。私は仕事の上で人様の怨みを買うはずもなく、その掛り合いで、娘に祟《たた》る者があるわけもございません」  こう言いきる小森屋弥八郎は、ずいぶん人にも眼をかけて、評判の良い地主でもあったのです。  怨みは殺されたお通にだけ限定されると、物事ははなはだ簡単になるようですが、さていざとなると、下手人の見当もつかず、平次もさすがに首を捻《ひね》りました。  倅の弥太郎にも逢ってみましたが、早生れでも六つの子供では、何を訊いても要領《ようりょう》を得ず、これは証人のうちにも入りません。  だが、平次が矢のことを訊くと、 「うん、坊がおもちゃにしたいというと、一つだけなら、いいだろうと、姉ちゃんが言うんだ。高いところへ掛ける前に、一本だけそっと持って来て置いたよ。叱られるいけないから、坊のお部屋へ隠して置いたよ」  という意味のことを、覚束ない口調で言うのです。おそらく母屋の床の間に靱《うつぼ》があったころ、真矢《ほんや》を一本抜いて来て、弥太郎の玩具にして置いたものでしょう。  真矢が一本、弥太郎の玩具にされていたとわかると、平次は八五郎を母屋に走らせて、床の間に立てかけてあった、弓を一と張り取り寄せてみました。それは籐を一パイに捲いた思いのほかの強弓《ごうきゅう》で、弓弦《ゆんづる》は外したままですが、弓そのものは、埃も留めずに、よく拭いてあり、近ごろ使った様子もないくせに、弦などが、わずかに濡れているのが気にかかります。 「八、この弓は女や子供じゃ扱えそうもないね」 「弦を掛けるのだって容易じゃありませんよ——ところで親分、裏の小林という浪人者の母親が来ていますよ、逢ってみませんか」  八五郎はささやきました。 「なるほど、それは良いところに気がついた。ここへ呼んでみてくれないか」  平次の言葉も待たず、八五郎は飛んで行きましたが、やがて四十五六の品の良い——やや取り済ました女をつれて、戻って来ました。 「私に御用だそうで——?」  それは冷たいが、憤りを押し包んだ声です。町方の御用聞風情に対する、武士階級に共通の反感でもありました。 「お気の毒ですが、少しお訊ねしたいことがあります」 「どんな事を申し上げればよろしいのでしょう」  平次の穏かな調子も、この浪人者の未亡人の、屈辱的な気持をほぐすには足りません。 「ほかじゃございませんが、小林様のお宅はツイ御近所のようですが、小森屋さんと昵懇《じっこん》にしていらっしゃることでしょうな」 「それはもう、なにかにつけてお世話になっておりますが」 「御総領の習之進様は、ことの外、小森屋のお嬢さんに御執心だったそうで」 「とんでもない。小森屋さんは本郷でも聞えた有徳人《うとくじん》で、私どもはその日暮しの浪人者、提灯《ちょうちん》に釣鐘でございます」 「でも、こればかりは、釣合いばかりを言ってはおられません、——それから、小林様と小森屋さんとは、毎日の往来があったことでしょうが、一々菊坂を登って、表の入口から入らっしゃいましたか、それとも、坂塀の切戸の錠前のこわれを御存じで、あそこから出入りなすったでしょうか」  銭形平次の問いは、妙に皮肉で突っ込んだものでした。 「なんということをおっしゃるんです。私どもがなんか、悪い事でも企《たく》らんでいるような——」  習之進の母のお世乃《よの》は、さすがに腹を立てた様子です。平次の返答一つでは、ずいぶん、ただでは済まさないといった激しい語気です。 「そんなつもりじゃございませんが、板塀の切戸は外から、毎晩のように開けた様子ですが、他の人がアレを開けるには、小林様のお家の軒下を通らなきゃなりません。それに男下駄や雪駄の足跡に交じって、女下駄の足跡が、切戸の内外に残っているのはどうしたことでしょう」 「えッ、黙って聴いていると、なんということをッ、私の倅が、お通さんを殺したとでも言うのですか」  お世乃の怒りは凄まじいものでした。丁寧な言葉のうちにも、気魄《きはく》は平次に噛みつきそうです。 「とんでもない、あっしはそんな事を言やしません。だが、あの塀の上の匕首は、いろんな事を知っていますよ。八、あの切戸の上の忍び返しの根から、匕首を取って来てくれ」 「おッ」  八五郎は庭に飛び降りると、板塀の切戸の上のあたり、忍び返しの元を探っていましたが、まもなく血だらけの匕首の一振りを探し当てて、自分の手柄みたいな顔で持って来るのでした。     五 「それから、台町の由松親分は、裏の小林様の浪宅を見張っているから、お前も手伝って、この匕首の鞘を捜してくれ、打ち割って土竃《へっつい》の中に押し込んであるのかも知れない」 「おっと、合点」  八五郎はスッ飛んで行ってしまいました。残るのは銭形平次と、小林習之進の母親お世乃と、そして殺されたお通の死骸だけ、しばらくは、鬱陶《うっとう》しい沈黙がつづきます。 「ね、小林様のお内儀、もうこの辺で、皆んな打ち明けなすっちゃどうです。板塀の忍び返しの中に、血染めの匕首を隠したのは、そらおそろしい智恵ですが、この辺は坂町で、塀が思いのほか低く見えるから、縁側からよく見えることには気がつかなかったでしょう」 「?」 「匕首の持ち主はすぐわかることでしょう、お通さんの胸には、真矢が一本突っ立っていましたが、丸窓の障子の外から、盲目《めくら》滅法に射込んだ矢で、人間一人殺せるものじゃありません。それに、先刻弓を取り寄せてみましたが、あの弓の弦を掛けるのは、心得のあるもので無きゃ、二人くらいはかかりますよ」 「……」 「もう一つ、丸窓の障子の破れは、内へ矢を射込んだ穴じゃなくて、内から、外へ突き破ったものですよ」  障子の穴のために出来た紙の端が、みな外の方へ向いているのを、平次は指すのです。 「それがどうしたというのです」  お世乃は打ちひしがれながらも、敢然として陣を立て直すのです。 「こういうことですよ。誰かが、この部屋へ忍び込んで、匕首で胸を突いてお通さんを殺した。その後を追っ駆けて来た人が、お通の死骸を見て胆《きも》をつぶし、下手人を庇《かば》うために、お通の胸から匕首を抜いて、その傷口へ、弥太郎の玩具にしていた真矢を刺し、丸窓の障子に丁寧に穴まであけて、さて板塀の切戸から逃げようと思ったが、血染の匕首があっては面倒と思い、ほかに捨てる場所もないので、忍び返しの根のところに匕首を載せて隠したが、その塀の上が坂町のことで、縁側から眼の下に見えるとは気がつかなかった」 「……」 「その匕首の主は、お通さん殺しの下手人、それに間違いはないじゃありませんか。お内儀」  平次の論告は、水も漏《も》らさぬ峻厳《しゅんげん》さでした。匕首の持ち主はともかく、それを庇ったのは女下駄の主で、裏の切戸から出入りした者、切戸の錠の利かないのを承知の上で、こんな細工をしたものに違いありません。  その時、台町の由松と、八五郎は、一団になって戻って来ました。 「親分、天眼通だ、匕首の鞘はありましたよ。土竃の中じゃないが、千六本に切って、焚きつけの籠の中に」  八五郎はその籠を打ち振って、わめき立てるのです。  この証拠は重大で決定的でした。お通を殺したのは、匕首の持ち主の浪人小林習之進でなければならず、母親の世乃はそれを庇《かば》うために、娘の傷口から匕首を抜いて、その跡に真矢を突っ立て、丸窓の障子にまで細工をしたのでしょう。  平次はもう、お世乃の肩に手を置いておりました。解決は、きわめて簡単についてしまったのです。 「いや、下手人は俺じゃない。俺が行った時はお通さんは元気でいたんだ」  つづいて台町の由松に引き立てられて、二十前後の若い浪人者——小林習之進がやって来たのです。眼の大きい蒼白い男、充分激情的で、そして臆病そうでもあります。 「小林さんで? 一体どうしたというんです」  平次はこの青年武士のうちから、なんとなく真っ正直な素朴なものを見出しました。下手人の疑いは濃厚ですが、いちおうの言い分を聴いてみようと思ったのは、ともかくも穏当なことです。 「——私は、もう我慢の出来ない心持であった。今夜という今夜は、お通さんの本心を聞く積りで、さすがに両刀は家へ置いたが、匕首を一口《ひとふり》懐ろに入れ、切戸から庭へ入り、幸い開けたままになっているこの部屋に入って、匕首を敷居の上に置いたまま、お通さんの返事を訊こうとしたのだ」 「……」 「でもお通さんは、後ろを向いたまま、黙っていた。一度は私と約束までした仲を、いつの間に冷たい心持になったか、それは知らないが、近頃は私を避けてばかりいるお通さんだった。ひと思いに殺そうと思ったが、美しい横顔を見ると、それも果たし兼ねて、私はスゴスゴと帰ってしまった。匕首は敷居の上に忘れたまま、——そして、心持を紛らせる積りで、本郷の大通りへフラリと出かけ、夜風に吹かれて真夜中近いころ戻って来た。母上はいつものように手燭を灯《つ》けて私を迎えて下すったが、ひどく青い顔をしておられた。私はなんにも言わずに自分の部屋に入ってしまった。——それだけの事だよ、銭形の親分。私は命も名も惜しいとは思わないから、決して嘘や拵《こしら》え事は言わない」  小林習之進は、そう言いきって、なんの蟠《わだか》まりもなく正面から平次の顔を見るのです。 「私は、倅のことが心配で心配でなりませんでした。私の目をはばかって両刀は置いて行ったが、それは私に心配をさせないためで、そっと匕首を持って行ったことは、私はよく知っていました。しばらく経って、我慢ができなくなって、切戸を開けて小森屋を覗くと、お通さんは小机に凭《もた》れたまま、倅の匕首に胸を突かれて死んでいるではありませんか。私はその匕首を抜いて、傍にあった真矢を取って、——可哀想だがお通さんの傷口に刺し、丸窓の障子に穴までこしらえて、あわてて逃げ帰りました。血だらけの匕首は、捨てる場所もなかったので、板塀の忍び返しに預けました。後で改めて隠そうと思ったのです。それでも下水や藪の中に捨てるよりは良かろうと思ったのが私の猿智恵でした。鞘は御覧のとおり細かく割って、焚きつけの籠に入れました」 「……」 「倅が下手人でないとわかれば、私はもうなんにも隠すところはありません。さア、縄を打って引き立てて下さい、私はどんな処刑《おしおき》を受けても、決して、決して怨みはしません」  お世乃は両腕を後ろに廻して、覚悟の眉を垂れました。 「お母様、——そんな馬鹿なことを、処刑を受けるものなら、私が受けます」  倅習之進は、その母親を庇って後ろに囲うのです。     六  銭形平次も、後のことを台町の由松に頼んでいちおうは引揚げる外はなかったのです。 「親分、あの浪人者は下手人じゃありませんか。逃がしてしまってよいんですか」  八五郎はそれが不服でたまらない様子です。 「小林習之進という浪人者の言うことは、一つも嘘はないよ」 「ヘエ?」 「あの江戸一番の美人の気でいる見識の高いお通が、まだそんな高慢な気を起こさないころ、小林習之進と飯事《ままごと》みたいな気で夫婦になろうと口約束くらいはしたかも知れないが、近頃はすっかり気位が高くなって、痩せ浪人などを寄せつけもしなかったようだから、小林習之進が泣いて頼んでも、後ろを見せて返事もしなかったというのは本当のことだろう」 「ヘエ?」 「お通は胸を刺されているんだぜ。小机に凭れているお通の胸を刺すには、下手人は馴々しく後ろから寄って、声でも掛けながら、不意に抱きついて、刺すほかはあるまい。嫌われ抜いている小林習之進には、そんな芸当はできないはずだ」 「?」 「お通の後ろから、油断させて抱きつくのは、誰だと思う」 「なるほどね」 「そこまでわかったら、お前は小森屋へ引返して、皆んなの荷物を調べてくれ、台町の由松親分にも手伝わせたら、半日で埒《らち》があくだろう」 「やってみましょう」  八五郎は途中から引返しました。  それからまる半日、八五郎が明神下の平次の家へ来たのは、もうすっかり暗くなってからのことです。 「どうだ、八。なんか変ったことはないか」  平次は恋人来らずといった心持で、煙草にしたり、欠伸《あくび》を連発したり、この報告を待っていたのです。 「なんにもありませんよ、あの家の者は、揃いも揃って癪にさわるほど無事ですよ」  八五郎は気のない顔をしております。 「家の中を念入りに見たのか」 「天井から床下まで、——それから雇人どもの部屋から荷物は皆んな調べてみましたが、銘々少しずつ溜めているほかには、不思議なことに女の子の手紙一本、吉原細見《よしわらさいけん》一冊ないから癪にさわるじゃありませんか」 「そんな事が、お前の癪にさわるのか」 「ヘエ、癇《かん》のせいでね」 「まア、よい。俺とひと晩ゆっくり考えたうえ、明日もういちど行ってみよう。塀外は小林習之進がウロウロしていたはずだから、あの二人が下手人でなきゃ、曲者は間違いもなく家の中にいたはずだ」 「そうでしょうか、あっしはどうも小林母子が臭いように思うんですが、あのお袋は一筋縄じゃ行きませんよ」 「いや、あの母親ではない、——現に、お通の死骸の傷に、真矢を突っ立てたと白状しているくらいだから、下手人ならそんな馬鹿なことを言うはずはないじゃないか。弓は三人張りの強弓だ。後で小森屋へ手伝いに行ったとき、埃《ほこり》を拭いたのもあのお袋の細工さ。——それにしてもわからない事ばかりだ」  平次は考え込むのです。  その翌る日、八五郎が誘った時は、平次はもう仕度をして待っておりました。 「どうです、親分、謎は解けたでしょうね」  八五郎は平次の顔から、何やら光明らしいものを見出したのです。 「いや、そんなわけじゃないが、下手人を甘くみて、調べが足らなかったことは確かだよ、——どうかしたら下手人が甘過ぎて、かえってこっちの考えが及ばなかったのかも知れない」  そんな事を言いながら、菊坂に着いたのは、まだ卯刻半《むつはん》〔七時〕という時刻、小僧の友吉は店の前を掃きながら、 「お早ようございます」  などと世間並みの挨拶をしております。  平次は店から入って、ひとわたり家中の者の顔を見ると、お勝手口から水下駄を穿いて外へ出て、庭に面した奉公人達の部屋の外を念入りに調べ始めました。 「何を見つけるんです、親分」 「誰か、お嬢さんのお通と逢引していたものはなかったか、——逢引でなきゃ、夜半《よなか》にそっと起き出して、お通の部屋を覗く奴がなかったか、ソレを見つけたいのさ。お通の部屋の前はよく踏み固められているだろう。家の中を廊下伝いに行くと、人目に立つから、多分、草履で庭を行ったことと思うが——」 「あ、ここにありましたよ」 「どれ」  八五郎は背延《せのび》をすると、戸袋の上から、泥だらけの藁草履を一足取りおろしました。夜露に濡れて代無しになり、恋の通い路に履くような粋な代物ではありません。 「こいつを履いたのは、誰でしょう?」 「見当はついているが、念のため下女のお照に訊きたいことがある、そっと呼び出してくれないか?」 「ヘッ、あれでも女の子に間違いはねえから、呼び出すのは気が差すが」 「馬鹿野郎、人に気づかれないように、早くするんだ」 「ヘエ」  八五郎は舌をペロリと出すと、自分の額を叩いて飛んで行きました。素朴で泥臭さはあっても、あのお照という女には、どこか不思議な良さがあったのです。  が、お照をお勝手口へ誘い出すと、平次はもう事務的になっておりました。 「この草履は、誰のだえ、知ってるだろうと思うが」 「わかりませんよ。そんなのは物置に五六足ありますから、でも、そんなに汚いのは?」 「履物には履癖《はきぐせ》があるものだ。長く使った草履や下駄にはその人の足跡が付いていると思う、——どうだ、この草履は汚れて濡れているだけに、足癖もひと眼でわかりゃしないか」 「そういえば、親指を蝮《まむし》にして履く癖や、土踏まずの深いところは——」 「誰だえ」 「友吉どんの足のようですが」 「よしよし、そうはっきり言ってくれた方がよい。友吉は十七とかいったね」 「え」 「まだ夜遊びなどはしないだろうな」 「そんな事はしません。でも、お嬢さんには夢中だったようで」  あんな粘液質らしい少年は、かえって人一倍初恋に身を燃やすことでしょう。 「お嬢さんの方はなんとも思わなかったのか」 「あの人は、友吉をからかって喜んでいましたが、根がしっかり者で、滅多な人に気を許しませんでした。お大名にでも輿入《こしいれ》する気だったんでしょう」 「ほかに、気のついた事は?」 「そうそう一昨日でしたか、——友吉が部屋を掃除して帰った跡を見ると、変なものを落して行ったから、お前にも見せてやろう、そりゃ大変なものよ——とお嬢様が一人で喜んでいました」 「恋文かな」 「お嬢様は人が悪いから、その大変なものを、なんでも皆んなに見せるんだと、一人で喜んでいましたが」 「お嬢さんと友吉と、そんなに仲がよかったのか」 「若い男をからかって、凭れたり、頬を突いたり、首っ玉に噛りついたり、そんな事をするのがお嬢さんは好きでした。でも心持は冷たくて、人に気を許すようなことはなく、どうかすると、仮借《かしゃく》のない、意地の悪いことも平気でやるんですもの」  お照は次第にこの不思議な美女の死の秘密を明らかにして行くのです。 「八、わかったよ」 「親分」 「先刻まで店の前を掃いていたようだ。なんとかして、あの小僧の懐中を捜《さぐ》ってみろ、大事なものは、身につけて置いたはずだ——荷物を調べたのは俺の考え違いだったよ」 「合点」  八五郎は飛んで行きましたが、間もなく店の方に大変な騒ぎが始まり、それが静かになると、八五郎は鬼の首でも取ったように、 「親分、やはりあの小僧が温めてましたよ」  頭の上でヒラヒラさせながら持って来たのは、なんと、蚯蚓《みみず》をのたくらせたような、舌ったるい恋文が一通と、娘の持物らしい、小さい可愛らしい物が二つ三つ。 「やはりそうか、どれ見せろ」  それは恐ろしく拙い字で、半紙一パイに書き埋めた、思いのたけの文句で、くさぐさの品は、お通の持物らしい、小巾《こぎれ》や玉や、哀れ深い品々だったのです。 「ところで、肝心《かんじん》の友吉はどうした」 「鉄之助に見張らせて来ましたよ」 「あの騒ぎはなんだ」  もういちど店の方にひと騒ぎが始まった様子、平次と八五郎が駈けつけた時は、友吉は鉄之助を突き飛ばして、朝の往来へ逃げ出したときだったのです。     *  友吉の死骸は二三日後大川に浮いて、事件はそれっきりになってしまいました。  その後八五郎にせがまれて、平次は、こう説明するのでした。 「可哀想なのは小僧の友吉さ。お通に玩具にされて、気が変になってしまったのだ。そのうえ、心こめて書いた恋文まで、当のお通に笑い草にされ、明日は家中の皆んなに見せると聴いて、我慢が出来なくなったのだろう。友吉は毎晩のように自分の部屋から脱け出して、お通の部屋を覗いていたが、あの晩はお通は小机に凭れてウトウトしているし、敷居ぎわには小林習之進の忘れて行った匕首があったので、それを抜いてお通の後ろから、いつものように、ふざけ合うように凭れ、手を前に廻してひと思いにお通の胸を刺したのだろう」 「なるほどね」 「自分のきりょうに自惚れて、若い男の子を遊んだお通がよくないよ、——ともかく、友吉のような生一本の若い男を、からかい過ぎちゃいけないのさ。お通は一ぺんに死んだが、後ろから手を廻した友吉は、反り血も浴びなかったことだろう。匕首を突っ立てたまま、そっと自分の部屋に帰った」 「……」 「その後へ小林習之進の母親が行って、お通殺しを、倅《せがれ》の仕業《しわざ》と思い込み、真矢を傷口に立てたり、匕首を隠したり、鞘を割ったり、いろいろの細工をした」 「変な話ですね」 「まったく母親でなきゃ出来ないことだよ。だがな八、お通の殺されたとき、母屋からそっと脱け出せるのは友吉の外にないし、お通の背後から凭れるようにして、胸に匕首を突き立てるのは、お通が馬鹿にしきっている、友吉の外にはない。小林習之進では、お通があんなことをさせなかったろう」 「……」 「可哀想なのは友吉だ。身も心も焼き爛《ただ》れるほど玩具にされて、恋文まで笑い草にされては、いても立ってもいられなかったに違いない」 「女は綺麗過ぎるのも良し悪しですね」  と感にたえた八五郎。 「それから男に惚れないのも良し悪しか」 「ヘッ、すると、こちとらの付き合っている女は、因果と皆んな不器量で惚れっぽいと来やがる。有難い仕合せみたいですね」 「まあ、そうとでも思え」  平次はここまで来て、ようやく日頃の笑いを取り戻しました。  弱い浪人     一  増田屋金兵衛、その晩は明るいうちから庭に縁台を持ち出させ、九月十三夜の後《のち》の月を、たった一人で眺めることにきめました。  金があってしみったれで、人づき合いが嫌いで、恐ろしく風流気のある金兵衛は、八月十五日の名月も、この独自のシステムで鑑賞し、ことごとく良い心持になれたので、それをまたくり返して、そのころ嫌った片月見にならぬようにと、いとも経済的な魂胆《こんたん》だったに違いありません。  奉公人や近所の者がなんと言おうと、思い立った事は遠慮会釈もなく実行に移すのが、それが金持の特権であり、風流人のたしなみであると信じきっているので、番頭や倅《せがれ》がその不穏当さを非難したところで、耳を傾けるような金兵衛ではなかったのです。  この変った独り月見の異変を、作者が辛抱づよく平叙《へいじょ》して行くより、江戸の御用聞、お馴染銭形平次の、明神下の住家で、子分の八五郎をして語らしめた方が手っ取り早く埒があきそうです。 「ね、親分、金があって暇があって、妾があって風流気があるんだから、思いつくことだって、世間と違って旋毛《つむじ》が曲っていますね」 「まるでお前みたいじゃないか」  銭形平次は相変らずの調子で、半分は冷やかしながら、適当なテンポで八五郎の報告を聴いております。 「ヘッ、違げえねえ、こちとらは借金があって、仕事があって、情婦《いろ》があって、喧嘩気がある」 「それから先を話せ」 「増田屋金兵衛、二た抱えはたっぷりあろうという名物月見の松の下に縁台を据《す》えさせ、松の葉蔭から、ユラユラと昇る月を眺めながら、チビチビと呑んだり、塩豆を噛ったり、下手な発句《ほっく》を考えたり」 「塩豆は変な好みだな」 「しみったれだから、一人で呑むんだって、酒の肴の贅《ぜい》は言わない、——もっとも一代に何千両という身上をこしらえる人間は、虫のせいで刺身《さしみ》や蒲鉾《かまぼこ》は自腹を切っちゃ食わないんですね」 「……」 「御存じのとおり、昨夜《ゆうべ》は良い月でしたね、あんな月を見ると、こちとらは袷《あわせ》くらいは曲げて呑みたくなるが、金兵衛は酒のお代りも言いつけずに、下手な発句ばかり並べて喜んでいる——、麻布名物の月見の松の下でね——」 「それからどうしたんだ」  平次は後を促しました。良い月夜の翌る日は、ショボショボした秋雨になって、夕方はもう真っ暗、平次と八五郎が相対している、神田明神下の——詳しく言えばお台所町の路地の奥は、申刻《ななつ》〔四時〕過ぎにもう灯《あかり》が欲しいようです。  火鉢を挟んで、寒山拾得《かんざんじっとく》みたいなポーズで、たった一本の煙管を、平次がすめば八五郎が拾い、八五郎が投り出せば、平次が取り上げるといった、世にも気楽な親分子分風景でした。 「話の前に、増田屋金兵衛は生れながらの町人ではなく、元は武家の出で、今から二十年前、増田屋の亡くなった後家に惚れられ、還俗《げんぞく》して町人になったということを覚えていて下さい」 「還俗て奴があるかえ、——両刀を捨てるとか、なんとかいいようがあるだろう」 「同じようなもので、——ともかく、侍《さむらい》のくせに弓馬槍剣は空《から》っ下手《ぺた》、ちょいと男がよく、弁舌が達者で、算盤《そろばん》が出来て、風流気があった——そこを見込まれて、元々身上の良い増田屋の後家に惚れられ、増田屋の庭先の、鼠の巣のような長屋から這い出して、披露もご挨拶もなく、ヌッと増田屋に納まって、浪人髷《ろうにんまげ》を町人髷にした」 「……」 「増田屋には先の亭主の遺した、新吉郎という今年二十八の倅があり、多与里《たより》という、今の主人の金兵衛の娘があります。これは十七になったばかり、可愛らしい娘ですよ」 「お前に言わせると、娘は皆んな可愛らしいから不思議さ」 「それでも妾のお鈴には及びませんよ、これは二十歳《はたち》か二十二でしょう、素人の出だというが、凄いほどの女で」 「道具立てはそれくらいにして、月見の話はどうなったんだ」  平次も少ししびれをきらしました。 「増田屋金兵衛の人柄から話さなきゃ、この話は面白かありませんよ、——何しろ二十年前に増田屋の後家のところへズルズルベッタリ入り込んで、それから増田屋の身上を倍にも三倍にもした男だ、人の怨《うら》みもずいぶん買っているわけで、この間から|たち《ヽヽ》の悪い悪戯が引っ切りなしだ、塀や羽目は落書きで一パイだし、石を投《ほう》る者、店先へ泥を飛ばす者、出入りの鳶頭《かしら》の半次が見張ったくらいじゃ、防ぎようがない」 「……」 「それが嵩《こう》じてとうとう、昨夜の縁台の独り月見で、主人の金兵衛、半死半生の目に逢った」 「……」 「縁台に腰を掛けて、チビチビやりながら、松の葉越しに昇る月を眺めて下手な発句を——」 「それはもう聴いたよ」 「ところへ、いきなり頭の上からパラリと罠《わな》が落ちて来た、——アッという間もありゃしません、気のついた時は、首を吊られた主人金兵衛の身体が、縁台を離れて、フラフラと宙へ吊り上げられていたとしたらどんなものです」 「驚くよ、——俺だってそんな目には逢いたかない、誰がいったいそんな乱暴なことをしたんだ」 「それがわかれば、あっしがしょっ引いて手柄にしまさア、釣られた主人は一切夢中だし、家中の者は誰も気がつかない、縄は松の大枝から下って、五十七歳の増田屋金兵衛、まるで蜘蛛《くも》の巣に吊られた一匹の蝿《はえ》のように、月見の松へキリキリと引き上げられた」 「なるほど、気味のよくねえ話だな」 「足は大地を離れているから、ジタバタしたって、踏むのは虚空ばかり、罠で首を締められているから、助けを求めようにも声が出ねえ」 「刃物を持っていなかったのか、元は武家だというから、せめて脇差しかなんか」 「そんな物はありゃしません、手に持っているのは、筆と短冊《たんざく》だけ、——増田屋金兵衛|茫《ぼう》となってしまった。何刻《なんどき》経ったかわからねえが、実は煙草一服の間かもしれません、松の上から金兵衛を吊り上げた曲者は、縄尻を大枝に止めると安心して逃げてしまった、あとは金兵衛が死ぬのを待つばかり」 「……」 「が、ちょうどその時、増田屋の掛人《かかりうど》で、近ごろ来たばかりの浪人者——用心棒というにしては人柄の良い、椿三千麿《つばきみちまろ》という若い武家が、外から帰って来て、庭木戸の外からこの体《てい》を見て、月が良いから、庭の中はひと眼だったというんで」 「フン」 「いきなり木戸を押し開けて飛び込み、脇差しを抜いて飛び上がりざま、金兵衛の頭の上で縄を切った、金兵衛が蜘蛛の巣から離れた虫のように、ドタリと落ちて来るのを、危うく宙に留めたというから大した手際でしょう。その時はもう、金兵衛虫の息も通っていなかったが、柔術《やわら》の方で、落ちた人間の手当てを心得ている椿三千麿が、背を割って活を入れ、顔へ水をブッ掛けると、よいあんべえに金兵衛は息を吹き返しました」  八五郎はようやくこの話を終りました。  麻布へ用事へ行った帰り、土地の御用聞から聴き込んで、稼業冥利《しょうばいみょうり》に増田屋を覗いて来たというのです。     二  二度目の異変は、十一月の十七日。  増田屋金兵衛は、離屋《はなれ》と母屋《おもや》を繋ぐ、廊下の端で刺されました。  この時は向柳原の八五郎の家へ、麻布からわざわざの使いがあったので、八五郎に誘われた銭形平次は、神田から遥々《はるばる》の道も厭《いと》わず、好奇心で張り切って飛んで行きました。  麻布の十番、俗に言う十番馬場の近くで、飯倉新町の一角を占めた増田屋は、大地主であり、武家の出身であったにしても、いささか僭上な構えで、破風造りの堂々たる住いでした。したがってその部屋部屋の関係も複雑怪奇で、一度覗いたくらいでは、平次にもチョイと見当はつきません。 「銭形の親分さん、遠方を御苦労様でした。主人が、どうしても親分さんに来て頂きたいと申しますので、ヘエ」  番頭の伊之助が案内してくれました。五十前後の、先代から奉公している忠義者——と後に主人金兵衛は紹介しております。二代の主人に仕えて、少しも厭《いや》な顔もせず、不自然な態度も示さなかった、徹底的な順応主義者という意味でしょう。  柄は大きくありませんが、よく肥った愛嬌のある男で、誇張された感情を、すぐ顔に出して見せる、特色のある印象を持っております。  主人の部屋は母屋の奥で、階下《した》の八畳でしたが、その頃はやかましかった長押《なげし》を打って、床の間なども書院造りらしく見せており、主人金兵衛の出身やたしなみを匂わせているのです。 「銭形の親分ですが」 「いや、とんだ無理を言って済みません」  番頭に紹介されると、主人金兵衛は、絹物の夜具の上に、わずかに首を動かしました。五十七八の痩せぎすの小柄な男、若い時分はずいぶん美男でもあったでしょうが、皺《しわ》が寄って、眼の下に脂肪がついて、顔色が青黒くなって、眼玉がドンヨリしては、若いとき美男であっただけにかえって浅ましく醜く見えます。  床の側にいるのは、二十歳そこそこの、素晴らしく肉感的な女、骨細で脂《あぶら》が乗って、弾力と骨格を失ってしまったような、——早く言えば淫《みだ》らな感じのする女でした。顔の道具はよく整った方、八五郎がいうほどの美人ではありませんが、人によってはこんなのに、とんだ点を入れるかも知れません。  平次が、事件の説明を訊くと、主人金兵衛は、眼顔で妾のお鈴に席を外させ、思いのほかの元気さで、こう説明しました。 「昨夜|亥刻半《よつはん》〔十一時〕頃、ここから離れに通う廊下に立っていると、いきなり横から刺されました、刃物は脇差しのようでした、真っ暗で何が何やらわからず、思わず大きな声を出すと、曲者はバタバタと逃げたようですが、まもなく母屋の方から、椿さんが手燭を持って駈けつけてくれました。なアに、傷は大したこともありませんが、この間から手を替え品を変え、意地の悪い悪戯がつづきますので、とうてい我慢がなり兼ねて、親分に来て頂いたようなわけで——」  主人はなんとなく脅《おび》えている様子ですが、言葉だけは、さり気なく元気に聞えます。 「傷は?」 「左の脇差しで、ちょっと右へ寄れば、心の臓をやられるから、命はなかったと外科が申します。廊下のあの辺は古い屏風やら建具やら、沢山のガラクタを積んでありますから、曲者はそこに隠れていたことでしょう」 「亥刻半《よつはん》というと夜半《よなか》だが、御主人はなんだって、そんな場所へ行ったんです。話の様子では、灯もなかったようだが」 「それは、フト、気になることがありましたので——」 「気になるというと?」 「離屋の方で物音がしたように思いました、——私の空耳だったかもわかりませんが」  主人金兵衛はひどく言い憎そうです。 「刃物は落ちていなかったので」 「それも申しました、家中の者に捜させた時は、なんにもなかったそうで」 「つまらねえことを訊くようですが、御主人を怨《うら》む者は?」 「二十年前には両刀を手挟《たばさ》んでおりました、若気の過ちで、ずいぶん我儘気随な振舞いもいたしましたが、それはもう昔のことで——町人になってからは、人と争わないように、そればかり気をつけて参りましたが」  主人金兵衛は、そう言いきっても、なんとなく割りきれないものがありそうです。  大方話のおわったところへ、倅の新吉郎と、娘の多与里《たより》が入って来ました、新吉郎は二十七八の、平凡過ぎるほど平凡な男でした。金にも健康にもなんの不足もないのに、二十七八まで嫁のないということからして、この頃の世間なみでは尋常ではありません。  娘の多与里は十七、これは金兵衛の本当の子で、おもざしもいくらか父親に似ており、細面ですがふっくりした頬や頤《あご》に、なんとも言えない可愛らしさがあります。  平次は一応二人にも訊いてみましたが、若い二人には何が何やらわからず、父親が松の木に吊られた時も、昨夜の騒ぎのときも、二階の自分達の部屋にいて、驚きあわてたというだけのことでした。  番頭に案内させて、平次は廊下から離屋を調べました。廊下は一間の板敷で、長さは二間ほど、北の方は窓を塞ぐほどの道具を並べて、曲者がいたとしたら、どこにでも身を隠せそうです。  窓は全部内から塞いでおり、滅多に風も入れないらしく、錆《さ》びついて、容易には開けられません。  その廊下の尽きるところは、三畳に六畳の離屋で、先代のころ隠居が使っていたという、埃《ほこり》臭い建物、縁側などを透して見ると、縦横に足跡の乱れているのは、なんとなく浅ましさを感じさせます。 「足跡はずいぶんたくさんあるが、女の足跡がないじゃないか」  平次は妙なことに気がつきました。 「こんな埃の中へ入るのに、草履《ぞうり》も穿かずに、足袋|跣足《はだし》は変ですね」 「逢引は素足の方がピタリとするだろう、大きいのと小さいのと、素足の跡が入り乱れていると洒落ているが」  そんな柄にも無い事を言いながら、念のために雨戸を開けてみると、庭の植込みを隔てて、低い生垣の外にかつては今の主人が住んでいたという、浪宅があからさまに見えますが、軒は傾き、柱も歪んで、ひどく危なげです。 「あの家には誰が住んでいるのだ」 「松井小八郎様とおっしゃる御浪人で——」  番頭伊之助は酢っぱい顔をしております。この浪人に対してあまり良い感じは持っていないのでしょう。  平次は元どおりに雨戸を閉めようとして、フト母屋の二階を見上げましたが、番頭を振り返って、 「あれは」 と雨戸の蔭に身を引いて指すのです。 「椿三千麿様でございます、この夏ごろから御滞在ですが——」  見ると娘の多与里と親しそうに話しているのは、二十四五の若い浪人者でした。少し多血質らしくはあるが、人品の良い、身のこなしの上品な、粗末な木綿物の袷に同じ木綿の紋付を羽織って、背の高さも尋常、なんとなく好ましい感じのする男でした。 「お嬢さんと仲が良いようだが——」 「ヘエ、お互いに若いことですから」  番頭伊之助は、少し擽《くす》ぐったい表情です     三  ひとわたり見て、裏口へ出た平次が、下女のお猪野《いの》につかまりました。 「親分さん、——昨夜御新造〔お鈴〕がどこにいたか、御存じでしょうね」  それは二十二三の良い年増でした。 「お前はなんか知っているようだな、——遠慮なく言うがよい、御主人は夜中にどんな用事があって起き出したんだ」  平次はこのきりょう良しの下女から、なんか容易ならぬ事を訊き出せそうな気がしたのです。 「御新造があのとおり若くて綺麗なんですもの、お年寄りの御主人とうまく行かないのも無理はありません、——近頃はお部屋も別々ですし」  たったこれだけのことで、平次には何もかも呑み込めたような気がしたのです。傷ついた主人の側にいた妾のお鈴に対する、主人金兵衛のよそよそしさが、唯事でないように思ったのも、主人が用もないのに夜中に飛び起きて、灯も持たずに廊下に潜んだのも、下女のお猪野の謎のような言葉で一ぺんにわかったのです。 「それで?」 「今までも、旦那様がときどき夜中に飛び起きて、忍び足でとんでもないところに行き、ジッと耳をすましていることがありました。お気の毒なことに、あの月見の晩から後、旦那様はおちおちお休みにならない様子なんです」  こんな事をヅケヅケ言ってのける下女のお猪野の心持も、平次はよくわかるような気がするのです。  そのお猪野——まだなんか言いたそうな顔をしているお猪野と別れて、裏庭の方へ廻ると、八五郎はいつの間にやら平次の側から脱出《ぬけだ》して、五十五六のむくつけき男と話しておりました。 「あれは下男の酉松《とりまつ》ですがね、二十五六年も此家《ここ》に奉公しているそうで、いろいろ面白いことを教えてくれましたよ」 「なんだい、その面白いことと言うのは?」 「奉公人はたいてい奉公人同士|庇《かば》い合うものですが、お妾と居候には妙に反《そり》が合わないようですね」 「なんのことだえ、それは?」 「お妾のお鈴の評判の悪さというものはありませんぜ、まるで奉公人と敵同士だ、ケチで高慢で浮気で、贅沢で——現に主人の眼を忍んで変な男を引き入れるんですってね、あの女は」 「……」 「主人は酒が好きで、寝酒を二本もやると、まるで他愛がないんですって、それを寝かしつけると、あの女はそろそろ動き出すというから厄介でしょう」 「お妾のお鈴が逢引してる男は?」 「それは教えてくれませんよ」 「俺にはよくわかっているが」 「ヘエ、親分がね」  八五郎はまたも平次に先を越されて、呆気《あっけ》に取られた様子です。 「庭の先、あの生垣がひと跨《また》ぎだ、あの辺から道が付いているのは皮肉だね、野良犬や子供の歩いた跡じゃあるめえ」 「なるほどね、男の名前をあっしに言わないわけだ。相手は武家じゃ、あとがうるさいから」 「そこで相談があるんだがな、八」 「ヘエ?」 「少し危ない仕事だが、お前は思いきってやってみる気はないか」 「何をやらかすんです」 「耳を借せ」  二人は何やら話をしながら、外の方から大廻りに、隣の浪人松井小八郎の家を訪ねました。 「何、神田の平次、それは珍しいな、真っすぐに庭に入るがよい、ちょうど退屈しているところだ」  小さい古い浪宅——庭口から平次と八五郎を迎え入れた松井小八郎は、縁側に片膝を立てて、呑気そうに話しかけるのです。  三十五六の、それは苦み走った男でした。少し骨張った顔ですが、背が高く、身体つきも逞《たく》ましく、調子の磊落《らいらく》なのも、ひどく人の好感を誘います。 「松井様は、いつからここに住んでおいでですか」 「三年前だ、——浪人暮しも長くなると、水の手が切れるから、増田屋さんの厄介を承知で居坐っているよ、もっとも近ごろ御主人の機嫌が変ったようだから、近いうちに引越そうとは思っているがね」  そういったことを、平気で打ちあける松井小八郎です。 「ゆうべ増田屋の御主人が、怪我をされたことも御存じでしょうな」 「聴いたよ、——増田屋金兵衛殿、昔は武士だと言ったが、まことに武術|不鍛錬《ふたんれん》だな」 「松井様はさぞ、武術の方は御自慢でしょうな」 「ほんのひと通りだが、暗い廊下へ不用心に入るようなことはしない積りだ」 「ヘエ、なるほど」  平次はつまらぬ事を感心しているうちに、松井小八郎を挟んで、その左側にいた八五郎は、側に置いた浪人者の一刀を横抱えに、二間ばかり飛び退いて、いきなりスラリと抜いてみたのです。 「あッ、何をする、無礼な奴ッ」  松井小八郎後ろの方に置いた脇差しを取ると、いきなり引き抜いて、無礼者——八五郎の鼻の先へつけたのです。 「八、止せ、とんでもない事をしやがる、御武家が腰の物を大事になさるのを、お前も知らないはずはあるまい」  平次は松井小八郎の脇差しの手に飛びついて、思わず声が高くなりました。 「ヘッ、武芸の御自慢ですから、お腰の物を拝見したくなったんですよ、さぞ立派な事だろうと」  八五郎はあわてて一刀を鞘《さや》に納めると、松井小八郎の方に押し返すのです。 「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、刀を見たかったのか、二人で相談をして、つまらない芝居を打ったんだろう。それならそうと言えば、器用に見せたものを、五郎正宗でもなんでもない、無銘の備前物《びぜんもの》だが、長い方にも脇差しにも、一点の血曇りも無いぞ、よく見るがよい」  松井小八郎はまったく良い男でした。平次と八五郎の思惑がわかると、深くとがめる様子もなく、カラカラと笑って、抜刃《ぬきみ》を投げ出すのです。 「ありがとうございました、つまらない事を考えた、私の方が極り悪くなります。どうぞ御勘弁を願います」 「まア、そう改まらなくたって——もっとも外に刃物があるかも知れないと思うだろうが、御覧のとおりの貧乏暮しだ、差換《さしか》えのひと腰は一年も前に質流れになって、あとは刃物といえば、お勝手の菜切り庖丁だけ、それも男世帯で鰹節《かつおぶし》も削れば、時には薪も割る、まるで鋸《のこ》のようになっているよ、いやもう、面目しだいもないような」  松井小八郎は面白そうに笑うのです。  さんざんお詫びを言って引揚げる途中、平次は八五郎に、 「気持の良い武家だね、お前の嫌いな二本差しにも、あんなカラリとした男もあるぜ、ニチャニチャしたお妾と逢引するような柄じゃない」  とささやくのでした。 「それじゃ下手人は誰でしょう?」 「まだわかるものか、容易ならぬ曲者だよ」  二人が母屋へ入って来ると、二階から降りて来た若い浪人者と、縁側でハタと顔が合いました。先刻下から見上げた、客分の椿三千麿です。  まだ二十四五でしょう、これは本当に良い男です。知的な額、血色の良い——すこぶる黒々と陽焦けのした顔、鳳眼《ほうがん》で、唇が堅く結んで、いかにも好ましい青年武士です。 「旦那、椿様とおっしゃるんで」 「そうだ、用事は?」 「あっしは町方のもので、昨夜の騒ぎのことで参《めえ》りました、恐れ入りますが、旦那の御腰の物を拝見さして頂けませんか」  松井小八郎で懲《こ》りて、こんどは正面からこう出る平次でした。 「……」  椿三千麿はサッと顔色を変えましたが、しばらくして、思い直したものか、両刀を鷲《わし》づかみに、黙って平次の方に差し出しました。 「拝見いたします」  作法もなんにもありません、しずかに鞘から抜いて調べましたが、これも二本ともなんの異状もなく、焼刃の匂いも美しく、玲瓏《れいろう》として水が垂れそうです。 「他に、お差換えは?」 「無い」  短いが断乎とした言葉でした。平次はそれを押して訊ねる言葉もありません。     四  麻布十番の増田屋の事件は、それっきりなんの発展もなく、ウヤムヤのうちに日が経ってしまいました。  銭形平次の手掛けた事件では、これほど時間を喰ったのは、滅多にないことです。  もっとも、この間も麻布十番から眼を離したわけではなく、八五郎をやっては、絶えず情報を集めております。 「親分、妙なことを聴きましたよ」  八五郎がフラリとやって来たのは、その年もあと十日で暮れようという、押し詰った日の夕方です。 「何が妙なんだ、松井小八郎という浪人が引っ越しでもしたのか」 「越したい越したいと言いながら、相変らずあの家にいますよ、引っ越し三百というから、多分その金が無いんでしょう」 「では?」 「あの椿三千麿という好い男の浪人者は、思いも寄らぬ大ペテン師ですぜ」 「嘘だろう、あれは正直者らしいぜ」  平次は首を振りました。 「親分の鑑定《めきき》も、人相見ほどには行きませんね、——あの浪人者は、どんなきっかけで増田屋へ入ったと思います」 「それは訊かなかったな」 「それが大変で——こうですよ、もう半歳も前ですが、増田屋の主人金兵衛が、お嬢さんの多与里と、鳶頭《かしら》の半次をつれて、久しぶりに浅草の観音様へお詣りに行ったと思って下さい」 「思うよ、で?」 「仲見世から雷門を出ると、いきなり突き当って、喧嘩を吹っかけたやくざ者が五人、お嬢さんを人質にして、因縁をつけたが、武家の出のくせに、あの主人の金兵衛はろくに武芸も知らず、鳶頭《かしら》は年を取って、啖呵《たんか》は切れるが腰が切れねえ、——人立ちはする、娘は泣き出す、どうなるかと思ったところへ、あの椿三千麿という、良い男の若侍が飛び出し、五人のやくざを手玉に取って、増田屋親子の者と鳶頭を助けた」 「まるで芝居の序幕《じょまく》だね」 「それから増田屋とあの椿三千麿が懇意《こんい》になり、近ごろ増田屋が、何者とも知れぬ敵に悩まされているので、精いっぱいに頼んで用心棒代りの客分で、増田屋へ入り込んだと——こういうわけなんです」 「それっきりなら、大した妙でもないじゃないか」 「これからが大変で、——盛り場でそんな事をするやくざは、たいがいが見当がついてるから、内々探りを入れてみると、増田屋親子に因縁をつけた五人組はすぐわかりましたが、一杯呑ませて訊くと、その芝居は皆んな人に頼まれて、一人頭二分ずつで引き受けた馴れ合いの立ち廻りとわかって、私も変な心持になりましたよ」 「頼んだのは誰だ」 「驚いちゃいけませんよ、あの生真面目な顔をした、美《い》い男の若侍、椿三千麿と聴いたらどうします、親分」 「本当か、それは」 「嘘だと思ったら生証人のガン首を五つ並べてお目にかけましょうか」 「お前のガン首だけでたくさんだよ——ところで、そう解ると、物事は恐ろしく六つかしくなりそうだ、あの椿三千麿という若侍の素姓をトコトン調べてくれ」 「やってみましょう」 「それから、もう一つ頼むことがある」 「……」 「増田屋の家中の者の足を調べるのだ」 「足ですか」 「変った足をしている者はないか、どうかしたら、下女のお猪野《いの》が知ってるかな、ときどきは奉公人の足袋も洗ってやるだろう」 「それから、椿三千麿という若侍と、娘の多与里が相変らず仲が良いか、それも気をつけてくれ、お前には打ってつけの仕事だ、色事の鑑定にかけては、俺もお前には叶わない」 「有難い仕合せで、いつまでも独りでいるからでしょう」 「主人金兵衛の前の身分、どこの藩中で、どうして浪人したか、それも訊きたい」 「それ位のことなら、わけはありませんよ」 「頼んだぞ、八」     五  八五郎の報告が来たのは、年が明けて七日の朝でした。 「お早よう、ようやくわかりましたよ、親分」  相変らず、猟犬のように仕事に熱中する八五郎です。 「七草だぜ、今日は、お粥《かゆ》は済んだのか」  平次は熱い粥を吹き吹き、雑煮《ぞうに》も七草粥も忘れて飛んで歩く八五郎を見やりました。 「それどころじゃありませんよ、唐土《とうど》の鳥ほどの、でっかいのが捕まりそうですぜ」 「どうしたというのだ」 「臭いのはやはりあの良い男の若侍、椿三千麿ですよ」 「はてね?」 「椿三千麿なんて、大嘘ですよ、前にいた長屋から、素姓をたどって調べると、本名は春木道夫というんだそうで、椿三千麿は考えましたね。元は上方生まれ、公卿侍《くげざむらい》の子で、二十年前に不心得な母親に逃げられ、まもなく亡くなった父親に言い含められて、父親に代って女敵討《めがたきうち》を心掛けているという——大変な男ですよ」 「その母親と逃げた男は、増田屋金兵衛だろう」 「そのとおりで、昔は坂井金兵衛と言って、これは寺侍、歌や発句や風流事は上手だが、武芸の方は一向いけないのはそのためだ」 「それから?」 「その春木道夫の椿三千麿が、ようやく坂井金兵衛を捜し当てると、麻布十番の増田屋金兵衛となって、|うん《ヽヽ》と金を溜めて納まっている、その金兵衛と上方から逃げた母親は二十年も前に死んでしまって、今は怨みを言う相手もないが、せめて金兵衛の懐へ飛び込んで、亡くなった父親の怨みを晴らす積り、浅草のやくざを語らって、麻布十番の増田屋へ入り込んだ——ここまではわかりましたがね」 「有難い、それだけわかれば」 「椿三千麿を縛れるでしょう、金兵衛を松に吊ったのも、廊下で刺したのも、あの若侍に違いありませんよ」 「待て待て八、松の木に吊《つ》られた金兵衛を縄を切って助けたのは、あの椿三千麿じゃないか」 「ヘエ?」 「廊下で刺したのも、三千麿のような気がしない、刀に血が付いていなかった——いや刀は外にもう一口《ひとふり》くらいはあるだろうが、三千麿が曲者なら、ワケもなく金兵衛を殺せたはずだ、ともかく増田屋へ行ってみよう」 「そうですか」  八五郎は珍しく気の進まないような顔をするのです。 「あ、忘れていたよ、八五郎は腹が減っているんだ、粥でもなんでも、存分に積め込んでからにしよう」 「そうですか」 「言い当てられて、極りが悪くなったのか、大丈夫、鍋ごと|かぶり《ヽヽヽ》付いたって笑やしないから」  二人はともかく、腹ごしらえをして、麻布十番まで駈けて行きました。  が、これはまた、恐ろしい手違いでした。  七日の吉例七草粥を、家風で奥で喰べた男二人は、まもなく七転八倒の苦しみを始め、若くて元気な方の若旦那新吉郎は、駈けつけた医者の吐剤《とざい》がきいて辛《から》くも命が助かり、年のせいで近頃めっきり弱っていた主人の金兵衛は、手当ての甲斐もなく息を引き取ってしまったのです。  七草粥に入っていた毒は、そのころ一般に用いられた、『石見銀山《いわみぎんざん》鼠捕り』の砒石《ひせき》とわかりましたが、さて、誰がいったいそんな事をしたのか、土地の御用聞が三四人顔を寄せましたが、まるっきり見当もつきません。妾のお鈴と、娘の多与里は、女同士でさいしょの七草粥の膳には加わらず、椿三千麿や番頭の伊之助と一緒に祝ったのでこれは無事、下女のお猪野や、下男の酉松は、まだ粥にもありつけなかったので、この毒害には無関係で済みました。  その騒ぎの真っ最中に、平次と八五郎が、寒天に汗を掻いて飛び込んだのです。 「何? 主人が死んだ、——粥に入っていた石見銀山で、若旦那は箸をつけたばかりだったから、命は助かったというのか」  平次は立ち騒ぐ人々の話を掻き集めて地団太を踏みましたが、今となっては追いつきません。 「もう一日早かったら、畜生め、こんな業《わざ》をさせるんじゃなかった」  八五郎は自分の手落ちのように口惜しがります。 「ところで、八、これから本気になって下手人を捜すんだ」 「冗談じゃありませんよ、下手人はあの男でしょう」  八五郎は飛び込んで行って、多勢の中から椿三千麿を引っこ抜いて来そうにするのです。 「あわてるな、八、椿さんは下手人じゃない、ね、椿さん、この野郎が弾みきって手をつけられません、京から江戸へ、坂井金兵衛を追っかけて来てから、浅草でひと芝居をやった事まではわかっていますが、その先の事を話してください、——金兵衛が死んだ今となっては、隠すほどのこともないでしょう」  平次は人数の中から椿三千麿を呼んで来て、遠慮も掛引きもなくこう言いきるのです。 「よく解ったよ、平次殿、私にもわからないことだらけだ、懺悔《ざんげ》のため、皆んな打ちあけて話そう、——多与里さんもよく聴いて下さい」  椿三千麿は、すっかり緊張を解いて、しずかに語り出すのでした。  死んだ父親の遺命を受け、逃げた母親と、その母親をつれ出した奸夫に怨みを言うため、京から江戸にたったのは三年前、手段を用いて増田屋に入り込んだことは、平次と八五郎が捜し出した筋書と少しも変りはありません。 「私は主人金兵衛を殺そうと思った、が、親しくなるにつれて、今は気まで弱くなっている金兵衛の良さもわかり、なかなか手を下せるものではない、——それに私も堂上方に仕えて、風流の道にこそ詳しいが、武芸の方ははなはだ怪しく、浅草で五人のやくざを投げ飛ばしたような、芝居事ならともかく、敵呼ばわりをして、主人と刀を合せる気力もなく、フト思いついたのは、あの月見の松の仕掛けだ」 「……」 「主人は八月十五日夜にも、松の下で独り月見をやった、九月十三日の後の月にもそれをやると聞いていて、私は外出ということにして、人の目の届かぬ折りを覗ってあの松の枝に攀《よ》じ登り、主人が松の下で、月を眺めながら、苦吟をしている隙を見計らって、投げ罠《わな》を投《ほう》り、主人の首に絡んで松の大枝に吊り上げ、その縄を松の大枝に留めて逃げ出した、主人の金兵衛の身体が軽かったので、これは大した骨の折れる仕事ではなかった」 「……」 「私はそのまま、此家《ここ》を去るつもりであったが、松に吊られて苦しむ主人の姿を見、奥の方から、なんにも知らずに、はしゃぐ多与里殿の声を聞くと、急に自分のする事が恐ろしくなり、木戸からもういちど庭に飛び込んで、自分で吊った縄を自分で切って主人を助けてしまった」 「……」 「私というものが、なんと腑甲斐《ふがい》ない人間かと、胸をかきむしって口惜しがったが、主人はじめ多勢の人、わけても多与里殿に、心から礼を言われると、自分のした事も忘れてしまって、私はもう心の中から嬉しさがこみ上げて来る——二十年前、父親の受けた辱《はず》かしめと怨みは、年とともに私の胸から薄れてゆくが、たった今、この私の前でくり返しくり返し言われる礼の言葉は、私の心を春の水のように、潤《うるお》してくれる」 「……」 「私は不孝な子であったかも知れない。でも二十年も経って父親の昔の怨みを、倅の私がこの手で解いてやるのは、決して悪いことでも、恥かしいことでもないように思って来た」 「廊下で主人を刺したのは?」  多勢の不思議な沈黙を破って、平次は口を容れました。 「あれは私でない——私なら、私と言うのに、少しも憚《はばか》らないが」 「廊下ですれ違った人があったはずだが」 「あったように思う」 「男ですか、女ですか」 「男だ、私の持っていた灯で、おどろいて姿を隠したが」 「そのとき離屋には」 「すぐ戸を開けてみたが、誰もいなかった、——雨戸も皆んな締っていた、伊之助がよく知っている」  事件は次第に、椿三千麿の口から、その全貌《ぜんぼう》を示して来たのです。 「八、離屋にあった足跡は、足袋を穿いたのだけだったな」 「草履も素足もありませんよ」 「貧乏な浪人者は、滅多に足袋は穿くまい、それから、家中の者で、変った足をしているのはなかったか、——その話はまだお前から聴かなかったが」 「ありましたよ、下女のお猪野が知っていました、若旦那の足には土踏まずがない——って」 「それだよ。あ、あの男だ」  八五郎がおどろいて隣の部屋に飛び込むと、今までそこで唸っていた、半死半生の若旦那新吉郎は、ムクムクと起き上ると、恐ろしい勢いで庭へ逃げ出したのです。  飛び込んだ八五郎が、それを捕《と》って押えたことは言うまでもありません。その掛けられる早縄の下から、 「あの野郎が、二十年前に私の父親を殺したのだ。——隣の浪宅から忍び込んで来て——その仇討に、松井さんがお鈴のところに忍んで来ると見せかけ、あの野郎に死ぬほど苦労させる積りでやった細工《さいく》だ、殺したのがどこが悪い、あの野郎は、私に取っては二十年前の親の仇だ、——それを知ったのは近頃だ、下男の酉松が教えてくれなきゃ、なんにも知らずに、あの野郎を父親と思っていたことだろう、二十年の間、親みたいな顔をして、勝手なことを言わせたのが口惜しい」  新吉郎は呪《のろ》いに呪いながら、大地を蹴って泣きわめくのです。     *  親殺しの新吉郎は、当然極刑に処せられるはずでしたが、平次の心ざしで、御白洲に証人として酉松が呼び出され、その証言で島流しで済みました。  椿三千麿の春木道夫は、多与里とあんなに親しくしていましたが、何を感じたか、飄然《ひょうぜん》として増田屋を去ってしまったのは一と月ほど後のことでした。 「妙な騒ぎだったな八、——でもこの中で一番悪いのは坂井金兵衛の増田屋金兵衛さ、椿三千麿が、二十年前の怨みを捨てたのは、意気地がないようだが、俺はあべこべに見あげる心持になったよ。人は人を怨んで、何代も何十年も忘れないというのは、決して立派なことでもなんでもないと思うよ。松の枝からブラ下がって、キリキリ宙にもがいている敵の姿を見て、縄を切る気になった椿三千麿には、嬉しいところがあるぜ」  古い、長い怨み、人間の魂を消耗して、地獄への道をひた向きに走るコースを、恥と我慢を捨てて絶ち切るのは、一面から見れば、大丈夫《だいじょうふ》の勇気ではなかったでしょうか。 「すると、親分でも、主人を松に吊ったのは椿三千麿とは、あの口から聴くまではわからなかったのですか」 「いや、あの九月十三夜の晩、——椿三千麿が、木戸の外から月明りで、庭の松の枝に人間のブラ下がっているのを見た——と言った時から、変だとは思ったよ、私が直々に聴いた話ではないが、いかに十三夜の月夜でも、名物と言われた繁《しげ》りに繁った松にブラ下がった人間は、木戸の外から茫《ぼん》やり見たくらいでは見つからないよ」 「それにしても、弱い浪人が揃ったものですね、松井小八郎はともかく、金兵衛も三千麿も」  八五郎は頬を凹ますのです。 「武家は皆、岩見重太郎や宮本武蔵のように強かったのは昔の話さ、二本差しにも強いのも弱いのもあるぜ、いや、弱い方が多いくらいさ。百姓町人の裕福なのに取り入って、幇間《たいこ》のように暮している安御家人や浪人崩れがある世の中だから」 「それにしても意気地が無さ過ぎますね」 「……」  こんどは平次が黙ってしまいました。 「でも、多与里という娘は可哀想でしたね、あれから二三度行ってみたが、何時でも泣いていましたぜ、好きな同士が一緒にもなれないような、世上の義理なんて糞《くそ》でも喰《くら》えだ、これがあっしなら——」  八五郎の哲学はなんと簡単明瞭なことか。  苫三七《とまさんしち》の娘     一 「ヘッヘッ、親分、今晩は」  ガラッ八の八五郎、箍《たが》のはじけた桶《おけ》のように手のつけようのない笑いを湛《たた》えながら、明神下の平次の家の格子を顎で——平次に言わせると——開けて入るのでした。それは両の手で弥蔵《やぞう》をこしらえて、格子をまともに開けられるはずはないからだというのです。  五月のある日、爽《さわ》やかな宵、八が来そうな晩でしたが、お仕着《しき》せの晩酌を絞って、これから飯にしようという頃になって、ようやく個性的な馬鹿笑いが、路地の闇をゆさぶるのでした。 「お前が笑い込んで来ると、ご町内の衆は皆んな胆《きも》をつぶすじゃないか、何がそんなに可笑《おか》しいんだ」 「ヘエ、あっしはどうかしてはいませんか、親分」 「臍《へそ》のロクロが、少し損じているんだろうよ、どうしても笑いの止らないところをみると」 「そんな間抜けな話じゃありませんよ、あっしという人間は、どうしてこうも、綺麗な新造に好かれるかと——ヘッヘッ」 「止さないかよ、馬鹿馬鹿しい、お静はお勝手口から逃げ出したじゃないか、お前の話を聴いていると、命に拘《かか》わる」 「それほどでも無いでしょう。ともかく、田原町からここまで来る間に三人の新造に首っ玉に噛りつかれたんだから、大したものでしょう」 「少し変だな、気は確かか。おい、野良犬にじゃれつかれたのを、新造と間違えたわけじゃあるまいな」 「とんでもない、野良犬があんな結構な香りを匂わせるもんですか」  八五郎はやっきとなります。 「どうも少し変だぜ、順序を立てて話してみな」 「順序を立てると、まず田原町の八人芸、苫三七郎《とまさんしちろう》の家へ行ったことから話が始まります」 「苫三七郎——フム、変な男と掛り合いをつけたものだな」 「ご存じのとおり、江戸中どこへでも、小屋を掛けて芸当を始めるから苫三七郎、ちょいと貧乏臭くて器用で、世間では大したものでないように思っているが、座頭の三七郎はなかなかの芸達者で、そのうえ気持の良い男だ。|あっし《ヽヽヽ》とは長いあいだの付き合いで」 「妙な友達を持ったものだな、まア、よい。先を話せ」 「その三七郎の芸をいちど親分に見せたいな、家の芸は手踊りだが、物真似、小唄、一人芝居から、品玉までやるという芸達者で、とりわけ、二つ面を使っての所作《しょさ》は大したものですぜ」 「それがどうした」  八五郎の話は長くなりそうです。 「その三七郎が、両国広小路に小屋を掛けるとき、あっしが世話をしたのが縁で懇意《こんい》になり、ちょいちょい行って無駄話をしておりますがね」 「フーム」 「その三七郎がこの間から、妙にふさいでいるから、どうしたことかと、二三度訊いたら、すまねえが、八五郎親分にはうっかり話せねえ、——と笑って相手にしなかったんで」 「……」 「ところが、今日という今日、田原町の三七郎の家で一杯飲んでいると、よくよく思い詰めたらしく、『どうも気になってならねえことがあるから、こいつを当分預かって置いて、万一のことがあったら開けてみてくれ』と、ひどくもったいをつけて、紙に書いたものを、小さく畳んで、封をしてあっしに預けましたよ」 「フム、面白そうな話だが、——それからどうしたんだな」 「田原町を出たのは薄暗くなってから、ホロ酔い機嫌で、鼻唄なんか歌って門跡《もんぜき》前まで来ると、いきなり一人の女が、前から飛んで来て、ドカンと突き当るじゃありませんか」 「どんな女だ?」 「若くて綺麗な女でしたよ、薄暗くてよくは見れなかったが、若くて綺麗だったことにしなきゃ、突き当られたあっしが納まりませんよ。ともかく、前屈みになったまま、島田髷《しまだまげ》をあっしの鼻のあたりへ叩きつけて、|あれ《ヽヽ》ッとかなんとか、精いっぱいかじりつきましたが、気がついて極りが悪くなったものか、あっしが備えを立て直して、女の顔を覗いて見ようとすると、キャッともスウとも言わずに、宵闇の路地の中に消えてしまいましたよ」 「なんか盗られはしなかったのか」 「盗られるような気のきいたものは持っちゃいません。あっしはご存じのとおり、江戸の町を歩く時は、路用は持たねえことにしているんで」 「路用だってやがる、少しは小銭を持って歩け。それがたしなみというものだ」 「ハッ、そのたしなみ、生憎、懐中《ふところ》に三日と逗留したことはありませんよ、空っぽになると、紙入れほど邪魔なものはありゃしません」 「煙草入れくらいはあるだろう」 「それも、この月に入ってからは、お先煙草ときめましたよ。なまじっか、空っぽの煙草入れをぶら提げて歩いて、人様の煙草をもらって吸うより、煙草入れを忘れて来たということにした方が立派でしょう」 「立派だってやがる、——なるほどそれだけサバサバしていると、巾着切《きんちゃっきり》が車掛りで攻め寄せても驚かねえ」 「でしょう、だからこっちは胆がすわってますよ。三七郎に預った代物《しろもの》は、肌守りの中へ封じ込んであるし、このままで泥棒の巣へ転がされても、憚りながら盗られるものなんかありゃしません」 「で、二度目は」 「向柳原の伯母さんの家へ寄って、——晩飯は済んだし、これから明神下の親分のところへ行くから、帰りは遅くなるかも知れない——と言って、路地の外へ出ると、こんどは背後《うしろ》から、恐ろしく肥った油臭いのが『口惜《くや》しいッ』と首っ玉へかじりつきましたよ」 「油臭いの?」 「ヘッ、少し胸の悪くなるような、変な匂いでしたよ。あんなのは、盆と正月にしか、髪を洗いませんよ。——いきなりあっしの首っ玉にぶら下がって、懐へ手が入るじゃありませんか」 「それも顔を見なかったのか」 「小話の太田道灌《おおたどうかん》じゃないが、あの路地は歌道《かどう》が暗い」 「洒落を言ってはいけない」 「肥った、ネットリした女でしたよ。口惜しいが、これは若くなかったようで」 「三度目は?」 「明神下のこの路地の入口ですよ」 「フーム、お膝元にも、そんな化け物はいたのか」 「その上、こいつは化け物の方でも大真打《おおしんうち》で、横から這い出して、あっしの腰へ抱きつくと、——兄さん逢いたかった——と来た」 「それは若かったか」 「お膝元の路地も太田道灌で、年もきりょうもわからないが、何しろ、ヤワヤワと絡《から》みついて、鼻声で囁いて、いや、その悩ましいということは」 「髪は?」 「大一番の島田」 「大一番の島田は変だな」 「ともかく、なよなよとしなだれ掛かるから、少し気味が悪くなって、——おい人違いだよ——と突っ放して、ここへ飛び込みましたがね、一と晩に若い女三人にしがみつかれたのは、あっしも生れて始めてですよ。江戸というところは、若い者には張合いのあるところだと思うと、腹の底から嬉しくなって」  八五郎はそう言ってまたニヤニヤするのです。     二 「それで、大方の話はわかったが、苫《とま》の三七郎から預った、なんかの大事そうな書き物はどうした、無事だったのか」  平次は改めて訊ねました。 「それはもう玉取り姫が姉妹そろって来てもこれは大丈夫で、何しろ紙入れも煙草入れもないあっしだから」 「そんな事が自慢になるものか」 「犢鼻褌《ふんどし》の三つも括《くく》ろうと思いましたがね。相手が有難そうにしているから、罰《ばち》でも当っちゃ悪かろうと、伯母さんがこしらえてくれた肌守りの中に封じ込んで来ましたよ、このとおり」  八五郎は懐ろをくつろげて、掛け守りを取り出しましたが、思わず、 「あッ、こいつはいけねえ」  あわてて立上がると、帯を解いたり裾を叩いたり、すっかり度を失っているのです。 「どうした、八」 「見えませんよ、掛け守りの紐だけあって、ぶら下がっている守袋を引き千切られていますよ」 「そんな事だろうよ、お前の話は少し面白過ぎた」 「どうしたんでしょう、親分」 「盗られたにきまっているじゃないか。江戸はどんなに面白い所だと言っても、田原町からここへ来る間に、三人もの夜鷹《よたか》にかじりつかれてたまるものか」 「そうでしょうか」 「相手は、その預り物を紙入れか煙草入れに入っていることだろうと、甘く見て掛ったに違いあるまい。ところが、八五郎|兄哥《あにい》と来ちゃ、江戸の町を歩くのに、路用も煙草入れも持たねえ人間だ。仕方がないから、大真打のネットリしたのが出陣して、文句入りで八五郎にしがみつき、うまい啖呵《たんか》かなんか考えている隙にお前の懐ろから守袋を千切ってしまったのさ」 「あの預った品はなんでしょう、親分」 「俺にわかるものか、——三七郎はなんにも言わなかったのか」 「言っていましたよ、——俺はどうも、命を狙われているかも知れない——と」 「フーム」 「あっしはそう言ってやりましたよ。命が狙われていると感づくような時は、不思議に殺し手は無いものだ、安心するがよいとね」 「だが、油断はならないな、——誰がいったい三七郎を殺そうとしているのか、そこまでは漏らさなかったのか」 「そんな事は言やしません」 「でも気になってならないな——お前は今晩疲れているだろうな」 「疲れ? ヘッ、そんな気取った台詞《せりふ》は、あっしの書き抜きにはありませんよ、去年の流行感冒《はやりかぜ》にやられたとき、葛根湯《かっこんとう》を一升五合ばかり飲んで、布団を三枚かぶって、半日寝込んだ時は少し疲れたような気がしましたがね」  八五郎が馬のように丈夫なことは、平次も知り抜いておりますが、もう戌刻《いつつ》〔八時〕過ぎの時刻を考えて、平次も少し躊躇《ちゅうちょ》したようです。 「それじゃ、御苦労だが、もういちど田原町へ行ってみるか。三七郎に逢って、一刻も早く預った書類を盗られたことを話し、あの中に何があったか」 「そんな事ならワケはありません。行って来ますよ、親分」  八五郎は本当に躊躇を知らない男でした。平次にそう言われると、守袋を盗られた自責の心持もあったのでしょう、そのまま、夜の町に飛び出してしまったのです。 「八、待ちなよ、浅草までこの夜更けに行くんだ、せめて、これでも」  平次は紙入れを持って追っかけましたが、八五郎の姿はもう、五月闇《さつきやみ》の中に消えてしまいました。  それから一刻《いっとき》あまり、平次は寝もやらず待っておりました。三七郎のことがいかにも心配になったのと、疲れているに違いない八五郎を、仕事に追いやったことが気になって、もう一本つけさせる張合いもなく、煙草ばかり燻《いぶ》しつづけていたのです。  やがて亥刻半《よつはん》〔十一時〕近いころ、三間町の菊太郎という、名前だけは優しい、中年過ぎの下っ引が、ヨチヨチしながら飛んで来ました。 「銭形の親分、大変ッ」 「どうしたんだ、三間町の菊|兄哥《あにい》じゃないか」 「八五郎親分の使いですよ、すぐ田原町へ来て下さるようにと」 「なんか間違いでもあったのか」 「八人芸の苫三七郎が首を縊《くく》って死にましたよ」 「えッ、——そんな事じゃないかと思ったよ——俺も一緒に行きゃよかった」  平次はそう言いながらも、手早く仕度をして、田原町へ駆けつけたことは言うまでもありません。     三 「親分、大変なことになりましたよ」  八五郎に迎えられて、平次が田原町へ着いたのは、もう子刻《ここのつ》〔十二時〕近い頃でした。それにもかかわらず、路地の奥一帯はゴタゴタして、なんとなく不安な気持が漂っております。 「三七郎が死んだそうじゃないか」 「それが変なんで、見て下さいよ、親分」  八五郎は待ち構えていたように、平次を現場に案内しました。  三七郎の家というのは、三七郎の外に一座の花形で、お百合《ゆり》とお若という年頃の娘が二人一緒に住んで三七郎の世話をしております。女房に死に別れて、あとは奉公人もありません。他に、道化《どうけ》の世之松と、囃方《はやしかた》の喜久治、お巻という中年の夫婦者はおりますが、これは二軒長屋の壁隣の家に三人で別に世帯を持っております。  二人の娘は、いずれも三七郎の本当の子ではなく、この種の芸人によくある、藁《わら》のうちからのもらい子で、どちらも十八、負けず劣らずの美しさで、行く先々の人気をさらっております。  二人の娘は、平次を迎えて、板の間に並んでおりましたが、疎《うと》い灯で見ても、なるほどこれは非凡の可愛らしさです。違ったところを言えば、お百合の方は細面の淋しい顔立ちで、上品ではあるが、愛嬌に乏しく、目鼻立ちの整った、やや冷たい感じです。お若の方は血色の良い丸ポチャでいかにも可愛らしい娘です。品《ひん》はお百合に及ばなくとも、舞台愛嬌があるので、お客様からはお若の方がグッと人気があります。  二人とも粗末なお仕着せ、上眼づかいに見送った眼は、ひどく怯《おび》えております。  死骸は奥の六畳、それは三七郎の居間でも、寝部屋でもありました。調度も貧しく、酒の道具はそこに散らばったまま、仰ぐと天井板が半分しかなく、太い梁《はり》が頭の上を通っているのもみすぼらしい限りです。  三七郎の死骸は、その梁の下に、首から細引を解いたままで横たわり、踏み台は後ろの方に蹴飛ばしたらしく、唐紙のところに転がっておりますが、三七郎が首を吊ったとすれば、梁の位置から考えて、蹴飛ばした踏み台は、縁側寄りの障子の側でなければなりません。  八人芸の三七郎は、芸達者ではあったにしても、決して暮しの楽な方ではなく、貧しい晩酌の中に死んでいる姿は、いかにも憐れでした。四十五六の華奢な男で、人品は決して悪い方ではありませんが、縊《くび》れて死んだ者の苦痛と醜さは、不気味に青黒い顔にコビリ付いております。  死骸の守《もり》をしているのは、隣に住んでいるという道化の世之松でした。三十四五の、青白い男で、表芸は道化でも、素顔はむしろ淋しく深刻な方で、世過ぎの辛さを刻みつけているようです。 「御苦労様でございます、とんだ御手数を掛けまして」  道化の世之松はヒョコヒョコとお辞儀をしております。 「今晩三七郎の死骸を誰が見つけたんだ」  平次はこんな平凡な調子で始めました。 「明日から駒形町に小屋を掛けることになっておりましたので、私とお百合さんとお若さんは、そっちへ参っておりました。夕方いちど戻りましたが、その時は親方は元気で、八五郎親分と飲んでおりました。私は仕事を仕残しましたので、薄暗くなってから、囃方の喜久治夫婦を誘って、お若さんと四人連れでまた出かけましたが、お百合さんは気分が悪いからといって後に残り、親方の酒の相手をさせられたそうですが、暗くなってから町内の丁子湯《ちょうじゆ》へ入り、四半刻《しはんとき》〔三十分〕ほどして帰って来ると——」 「三七郎が梁に首を吊っていたというのだな」 「そのとおりで、ヘエ」 「親方の三七郎には、死ななきゃならぬ程の差し迫った苦労でもあったのか」 「確かなことはわかりませんが、なんか御武家を相手に、掛け合いごとはあったようで」 「どんなことだ」 「どんなことか、こちとらにはわかりませんが、なんでも、この二三日はひどく腐っていたようでございます」 「金の苦労はなかったのか」 「どうせ楽ではございませんが、それでも、死ななきゃならないほどのものは、人様が貸しても下さいません」 「なるほどな」  そう言えばそれに相違ありません。  道化の世之松が隣の喜久治夫婦を呼びに行ったあいだに、平次は八五郎を顎《あご》で呼びました。 「どうだ、八、お前の考えは」 「ヘエ、どう見ても三七郎が自分で首を縊ったに違いありませんが、今日の夕方あっしと逢った時は、唯事でない顔色でした。それに、あっしの懐中から、三七郎に預った書付けを盗ったのも、わけがありそうですが——」  八五郎は首を捻《ひね》るのです。 「三七郎の首の細引の跡は、間違いもなく上から吊ったものだが、俺には腑に落ちないことがあるのだよ」 「どんなことです、親分」 「結び目は、縄が一重で罠《わな》になっているだろう。首でも縊《くく》ろうという人間は、十人が十人まで細引を二重に巻くものだ、一重の細引では苦し紛れに動くと、顎からスルリと外《はず》れることがあるだろう」 「ヘエ? 親分もやってみたようですね」 「罠にして首を突っ込むと、罠が締ったとき細引が伸びるから、どうかすると、足が下へ着く」 「なるほどね」 「あの梁《はり》の上を見てくれ、そこに踏み台があるだろう、俺は行灯《あんどん》を差し出してやる」 「ヘエ、首吊の使った踏み台に昇るのは気味がよくありませんね」 「何を言う、お前なんか、死神を一束《ひとたば》ほどケシかけたって、首なんか吊る気遣いはない」 「有難い仕合せで」  八五郎はそんな事を言いながら、踏み台の上から、梁の上、細引の掛ったあたりを覗いて見ておりましたが、やがて大きな声で、 「梁の上は掃《は》いたようですよ、まさか、梁の上まで掃除が行届くはずはないから、人がここへ乗って、ワザをしたんでしょうね」 「よしよし、それでたくさんだ」  八五郎の張り上げる声を平次はあわてて止めました。     四  八五郎が梁から降りると、道化の世之松は囃方の喜久治とその女房のお巻をつれて来ました。亭主の喜久治は四十二三、女房のお巻は三十五六、どちらも申し分なく世帯崩れがしておりますが、二人ともよく食うとみえて、なかなか見事な恰幅《かっぷく》です。 「ヘエ、ヘエ、とんだことになりました。親方に死なれては、差し当り私どもが途方に暮れます。明日駒形で小屋を開けるのだって、どうなりますことやら」  喜久治はまず、自分の利益がピンと来る様子です。 「お前達はどこかへ行っていたそうじゃないか」 「ヘエ、駒形の小屋の様子を見たり、道具を調べたり、明日の打ち合わせをしておりました」 「誰と、誰とだ」 「私と、女房と、道化の世之松と、それにお若さんの四人でございました——近所でお訊ね下さればわかります。何しろ苫三七郎の一座で、筵《むしろ》張り同様の粗末な小屋を掛けるのが、私どもの一度の慣《なら》わしで、そのかわり、一日か二日で仕上げてしまいます、その忙しさと申すものは——」  喜久治は際限もなく弁じます。 「三七郎を怨む者でもなかったのかな」 「そんな事はありません、多寡が吹けば飛ぶような芸人で、ヘエ」 「なんか、心配事があったそうじゃないか、——武家を相手に」 「それも薄々は聴いております」 「どんな話だ、それを聴かしてくれ」 「私より、女房の方がよく存じておりますが、——なんでも亡くなった親方のお神さんから、誰にも決して言わないようにと、内々聴いたことがあるそうで」 「?」  平次は黙って女房のお巻を促しました。三十五六といっても、青脹《あおぶく》れの大きい女で、少し貧乏疲れはしておりますが、なんとなく旺盛な感じのする女です。 「それが妙な話なんですよ、親方の娘二人、お百合さんとお若さんは、どっちも親知らずのもらい娘で、身内も兄妹もないのかと思うと、そのうちの一人、たしかお若さんの方は、日本橋とかのさる御大家のお妾の子で、本妻が生きているうちはやかましく、親知らずの約束で金をつけて三七郎親方夫婦にくれてやり、十八年も育ててもらったというんで」 「……」  話の奇怪さに、平次も黙って後を促しました。 「親方夫婦は長いあいだ旅興行《たびこうぎょう》に出て、私共も名古屋で一緒になり、一座を組んで江戸に帰ったのは今から五年前、親方夫婦は、二人の娘を、本当によく可愛がりました。どっちも、御覧のとおり綺麗で利口で芸達者で、申し分のない娘達です。可愛がるのも無理はありません——ところが」  女房のお巻は固唾《かたず》を呑みました。 「なんか変ったことでもあったのか」 「近頃になって、お若さんの親が名乗って出たのです」 「?」 「なんでも、日本橋のびっくりする程の大金持だそうで、本妻が死んで跡取りはなく、今では十八年前に、妾の腹にできた娘を捜し出して、家を継がせる外に工夫もなくなり、人を頼んでいろいろ骨を折らせましたが、その娘の母親だった妾も亡くなり、一二年は途方に暮れましたが、近ごろになって、娘のもらい手が、苫三七郎という芸人とわかり、その大町人の昔からの用心棒、竹中十兵衛という浪人が、三七郎親方を訪ねて、娘を返せという、強談判《こわだんぱん》を始めたのです」 「返せばそれで済むことではないか」 「ところが、十八年のあいだ、実の娘のように可愛がって育てた、親方の三七郎が、今さら娘は手離せないというのです。向うは十八年の養育料を三倍にして出しても構わぬ、なんでも娘のお若さんを返せと言うが、お若さんは一座の人気者で、言わば一座を背負って立っているようなものだから、その稼《かせ》ぎも容易のものではない、今までの養育料をもらったくらいのことでは、合わないというのですが、正直のところ、親方の三七郎は、娘のお若さんが可愛く、金を山に積んでも手離す気はないのです」 「で?」 「こちらには証拠もあることだから、刀にかけてもと、浪人竹中十兵衛は脅《おど》かします。そんな事で、親方は近頃すっかり腐っておりました」 「それでわかったよ、では、二人の娘に逢ってみようか」  平次は八五郎を促して、二人の娘を呼び出させました。囃方の喜久治夫婦は、ホッとした様子で、死骸の側を離れます。     五  八五郎がお百合とお若を呼び込むと、二人はつつましやかに、平次の前に並びました。三七郎の死骸がまだそのままにしてあるのが、二人には恐ろしかったのか、二羽の小鳥のように寄り添って、黙って平次の言葉を待っております。 「お百合というのは」 「私でございます」  淋しい品の良い方が応えました。 「お前が、親方の死んでいるのを見つけたというが、そのとき部屋には灯《あかり》が点いていたのか」 「行灯がついておりました」 「さぞ胆をつぶしたことだろうが、飛び出して大きな声でも立てたのか」 「いえ、お隣は皆んな駒形へ行って留守ですし、他の人達をお騒がせするのもお気の毒ですから、お勝手へ飛んで行って庖丁《ほうちょう》を持ち出し、それで細引を切りました」  いかにも落着き払った処置振りです。死骸の首へ巻いた細引の罠が、首のすぐ上で引き千切ったように、ギザギザに刃の跡のあるのはそのためでしょう。 「それから」 「駒形へ飛んで行こうと思って、外へ飛び出すと、皆んなに逢いました、ちょうど帰って来たのです」 「皆んな?」 「お若さんと、世之松さんと、喜久治さんと、お神さんが揃って」  お百合の話は静かで、整然としていて、少しの破綻《はたん》も誇張もありません。 「親方を怨んでいる者はなかったか」 「……」  二人の娘は顔を見合せるだけです。 「親方が、なんか心配していたというが」 「……」  二人はまた黙ってしまいました。 「お前達は、銘々本当の親を知っているのか」 「知っていれば、こんな事をしてはいません」  愛嬌者のお若ははっきり言うのです。若い盛りを、諸人の見世物になるのが、その頃の道徳では決して誇らしいことではなかったのです。 「お前達の素姓《すじょう》のことで、親方はなんか言ったことはなかったか」 「ときどき二人の顔を見て、ホッと溜息をつきました。どんなことがあっても、お前達は離さないと、そんな事を言うこともありました」  お若はそう言って、そっと側《わき》を向くのです。涙を拭いた様子です。 「すると、お前達は、親方の気持がどうあろうと、折があれば、この一座から足を洗いたいと思ったことだろうな」 「いーえ」  お若は屹《きっ》と顔を挙げましたが、黙って考え込んでいるお百合を見ると、自分も口を緘《つぐ》んでしまいました。  平次は二人の娘を帰してやると、もういちど死骸の様子、間取りの具合い、狭い庭などを眺めておりましたが、やがて、八五郎に向って、 「どうだ八、見当はつくか」  脈を引いて見るのです。 「四人揃っていちゃ、一人抜け出して三七郎を殺すわけにも行かないでしょうね、すると、たった一人残っていた、お百合が一番怪しいということになりそうですね」 「お前はどう思う」 「殺しは確かに殺しですね、首を吊る者は踏み台を蹴飛ばすのは定石《じょうせき》だが、ブラ下がって後ろへ踏み台を蹴飛ばすのは、手練がいりますね。あっしもずいぶん首縊りを見たが、踏み台は十人が十人前へ蹴飛ばすようで」 「すると」 「嫌なことになりますね。でもあの娘は人なんか殺しませんよ。淋しいけれどお品がよくて、どっかに優しいところがあるじゃありませんか。あっしが来た時、ひどく泣いてたのは、あの娘ですもの」 「お若だって、先刻泣いていたよ」 「それに、親分は言ったでしょう、絞め殺して首を吊ったように見せる手はよくあるが、人は自分より貫々の重いものを上へ引き上げることはできない。下から引っ張り上げた奴は、たいてい石灯籠とか材木を使って、殺した死骸を引揚げていますよ。まして梁《はり》から罠《わな》を投げて、人を吊るなんて芸当は、細っそりした小娘にできるはずはない。梁の上へ石臼《いしうす》を持ち上げたら、下で飲んでいる三七郎は気がつくだろうし、どうしたって、お百合は下手人なんかじゃありませんよ」  八五郎は躍起となって、お百合のために弁ずるのです。 「よしよし、若くて可愛い娘のこととなると、お前もとんだ良い智恵が出るぜ。ところで八、頼みたいことがあるが」 「ヘエ、どんな事です」 「三間町の菊太郎を駒形へやって、三七郎の新しい小屋で、お若と、世之松と、喜久治と、その女房のお巻が、宵から何をしていたか、近所の人によく訊かしてくれ、それからお前は、しばらくのあいだ、此家《ここ》に泊っているんだ」 「若い娘二人のところへ?」 「たいそうな役得じゃないか」 「何をやらかすんで」 「近いうちに、竹中十兵衛という浪人者が来るはずだ。明日かも知れない、明後日《あさって》かも知れない——来たら、誰にも逢わせずに、明神下の俺の家へつれて来てくれ」 「ヘエ」 「たったそれだけのことだが、手ぬかりがあっちゃならねえ」 「ヘエ、そんな事なら」 「ここに頑張っている間に、お前にかじりついた、三人の女の匂いを思い出して、誰と誰だったか、嗅ぎわけてみるがよい。俺には大方見当はついた積りだ——が」 「誰です、親分」 「一人わからねえのがある」 「驚いたね、どうも」 「さいしょの一人がわからねえのさ、二人目は煙草の匂いがしていたはずだ」 「あ、なるほど、そう言えば」 「三人目は恐しく、色っぽく絡《から》み付いたと言ったね」 「ヘエ」  平次はそう言っていちおう引揚げました。     六  翌る日、三間町の菊太郎は、平次のところへ報告を持って来ました。 「駒形の小屋へ二三度行ってみましたが、三七郎が死んで、興行は当分休みのようです。昨夜あの小屋の中はたいへん賑やかだったそうで、夕方から宵へかけて、歌なんか歌っていたというから、親方が来ないのをよい幸いに、三四人で飲んでいたんでしょう」 「それから」 「田原町の方も幾度も覗いてみましたが、三七郎のお葬《とむら》いの仕度で、ゴタゴタしております。その中で八五郎親分は、よい心持そうに指図をしていますが——」  美しい娘二人の間に、八五郎の燥《はしゃ》ぎ振りは思いやられます。 「八から言伝《ことづて》はなかったのか」 「まだ誰も来ない様ですが、いずれその浪人とかが訪ねて来さえすれば、八五郎親分が有無を言わさずここへつれて来ることになっております」 「御苦労御苦労、あとを確《しっか》り頼むぜ、あの中に三七郎殺しの下手人がいるんだから」  平次はひと先ず菊太郎を帰しました。それから二日三日、八五郎はどんな顔をしているか、直接見る折もありませんが、三間町の菊太郎は、毎日のように消息を伝えてくれます。 「ヘッ、ヘッ、八五郎親分、近頃はすっかりあの娘《こ》と仲よしになって、お安くありませんよ、親分」  菊太郎の三日目の報告はそんなものでした。 「どっちの娘だ、お百合か、お若か」 「どっちも綺麗ですが、お百合の方はツンとしていて、そう申しちゃなんですが、八五郎親分を相手にしませんよ。そこへ行くと、お若の方は愛嬌者で、四十過ぎた私にさえ笑顔を見せるくらいですから、八五郎親分なんかもう夢中で」 「あれが、八の悪い癖だよ。もっとも日に二つも三つも岡惚れをこしらえる野郎だから、取り逆上《のぼせ》ても、心中や夜逃げをする気遣けえはねえ」  平次はそう言って苦笑しているのでした。  その翌る日の夕方、八五郎はとうとう、鳴り物入りで明神下の平次の家へ飛び込んで来ました。 「この方《かた》ですよ、竹中十兵衛とおっしゃるのは。厭だといって駄々をこねるのを、田原町から無理に引っ張って来ましたが——」 「なんという失礼な口をきくのだ、八」 「ヘエ」 「あんな野郎でございます、御勘弁を願います。実は、お聞き及びでしょうが、お捜しのお嬢さんをお預りした、苫三七郎が首を吊って死にました。よく調べると、それは人手に掛って殺されたので」 「それは驚き入ったことだな、——外ならぬ銭形の親分が折入って私に話があるというので、この人と一緒に参ったが」  浪人竹中十兵衛は、人柄の老人でしたが、平次のやる事に、まだ釈然としないものがありそうです。 「それについて、三七郎を殺したのは、なんか企《たく》らみあることで、下手人を挙げなければ、お前様もとんだものを|つかま《ヽヽヽ》されます」 「と言うのは」 「娘は二人、どちらも綺麗で、どちらも十八、素姓もわからず、幼な名もわかってはおりません。二人の娘を並べて置いて、どちらが尋ねる跡取りかお見定めがつきましょうか」 「いや、それははなはだ困る」  竹中十兵衛、すっかり困惑してしまいました。 「三七郎が殺された上は、その下手人を捜し出して、その悪者が偽《にせ》の娘と見極める外はございません」 「いかにももっとも」 「で、どちらが跡取りでしょうか、詳しくお話を承《うけたま》わりたいと存じますが」  平次は退引《のっぴき》させずに追究しました。 「なるほど、そう聴けば包み隠すわけにも参るまい、——実は」  竹中十兵衛は、ここでようやく打ち明ける気になったのです。     七  その晩、平次と八五郎は、浪人竹中十兵衛と一緒に、田原町の苫三七郎の家に出かけました。  六畳のいつぞや三七郎の死骸を見つけた部屋には、娘のお百合、お若を始め、道化の世之松、囃方の喜久治とその女房のお巻が集められ、浪人竹中十兵衛から、改めての話があったのです。  狭い部屋に、行灯が一つ、燭台《しょくだい》が二つ、銘々の表情まではっきり読める中に、 「さて皆の衆、私はここで、正直のことを申し上げて、皆の衆にお詫びもし、私の苦しい申し出も聴いてもらわなければならないのじゃ——」  と語り始めました。話の枕の物々しさに皆んなはもう、冒頭《はな》から固唾を呑んでおります。  竹中十兵衛はつづけます。 「十八年前、三七郎殿に、生れたばかりの女の赤ん坊を預けたのは、日本橋のさる大店《おおだな》の妾と申し上げたはずだが、まことは、大変な違いで、それは先年鈴ガ森で処刑になった、大泥棒黒雲源左衛門の忘れ形見であったのじゃ」 「あッ」  誰やらが思わず驚きの声を挙げました。千万長者の妾の子というのは、まったくの偽りだったのです。 「父親の黒雲源左衛門が刑に服したとき、女房のお半というのも、夫と同腹と見られて、捕えられ、三宅島に流されて十八年、このほどようやく許されて江戸に帰ったのじゃ、——かく申す拙者は、そのお半の実の兄、つながる縁で主家を浪人したが、妹が気の毒さに、産んだばかりの女の子に多分の金をつけて、日本橋の大店の妾《めかけ》の子と偽って、三七郎殿に養育を頼んだ」 「……」 「ところで、このほど、許されて三宅島から帰った拙者の妹、兇賊黒雲源左衛門の女房お半は、十八年前に産み捨てたたった一人の娘を忘れ難く、命あって今日まで永らえているものなら、三七郎殿からもらい戻すか、せめて一目たりとも逢いたい、いずれ故郷の九州へ帰る身であるが、娘が一緒に行こうとならばつれて行きたい、——とこう申すのじゃ」 「……」 「娘が十八年のあいだ世話になった養育料、千金を積んでも酬《むく》い足らぬところだが、島帰りの女に金などのあるはずもない。お気の毒だが、ここにある五両——たった五両だが、島で十八年間に溜めた涙と汗の塊り同様の金、これを三七郎殿に差し上げて、娘をつれ帰るようとの望みじゃ」  竹中十兵衛は、折り目正しく手をついて、しずかにこう言い切るのです。紙へ載せた五両の小判を誰へともなく、差し出しながら。 「親分」  このとき、不意に八五郎が、縁側から声を掛けました。 「なんだ、八」 「あっしの守袋が、縁側に抛《ほう》り出してありましたよ」 「何、お前の盗られた守袋が?」  平次は立上がりました。人々は少しばかりザワ付きます。 「これですよ、親分。伯母さんが縫ってくれたんだ、間違いありません」 「よしよしその中に、三七郎に頼まれた書き物が入っているはずだ。それを出してくれ、お前の臍《ほぞ》の緒書《おが》きなんか、要るものか」 「親分、変なことが書いてありますよ」  八五郎は、一枚の半紙を小さく畳んだのをひろげながら、平次の前へ押しやりました。 「何、何?——竹中さんから十八年前に預ったのは、娘のお百合だというのか、年月日と苫三七郎の名前が書いてある」 「すると親分」 「悪者はわかったよ、外は蟻《あり》の這い出る隙間もないはずだ。皆んな縛れ、八、竹中さんもお力を貸して下さいッ」  それは大変な騒ぎでした。男二人、女二人、必死と逃げ出すのを、平次と八五郎と菊太郎とそして竹中十兵衛の手で、苦もなく縛ったことは言うまでもありません。 「馬鹿野郎、皆んな縛れといったって、お百合さんは別だ、それは日本橋通三丁目の大賀屋宇右衛門さんの一人娘だ」  平次は、お百合の肩に手をかけた八五郎をたしなめるのでした。     *  その晩平次は、八五郎に付き合って一杯飲みながら、事件のからくりを解き明かしました。 「三七郎は、お百合可愛さのあまり、本人にも素姓を教えなかったんだ。万一の時の用意に、あの書いたものを八五郎に預けたが、その晩悪者に殺されてしまった。——悪者の張本人は八と仲のよかったお若さ。お若はお百合が良い家の娘で、近いうちに引き取られることを知り、それが羨《うらや》ましくなって、自分が替え玉になろうとし、自分に惚れ抜いている世之松を仲間に引入れ、喜久治とお巻を欲で釣ったのさ」 「ヘエ、あの娘がネ」 「外面如菩薩内心如夜叉《げめんにょぼさつないしんにょやしゃ》というぜ。女の子と親しくなる時は気をつけろよ、——あの晩、駒形の小屋で一人か二人で四人分も騒いだのはお前もわかるだろう、お前が三七郎に書面を預って外へ出ると、門跡前でいきなり突き当ったのはそれがわからなかったんだ。お若か、お百合か、ともかく娘だ、——後でお若とわかったが、二度目に向柳原でお前の首にブラ下がったのは、脂切って煙草臭いお巻さ。三度目のこの路地の外で、とうとう守袋を盗ったのは女に化けた世之松さ」 「ヘエ、あの野郎が」 「芝居気があるし、女形《おやま》になれる男だよ。恐ろしくニチャニチャして一種うっとうしい女形のせいさ。髷《まげ》が大きかったのは鬘《かつら》のためだ」 「なるほどね」 「そのあいだに囃方《はやしかた》の喜久治は、あの家へ忍び込み、お百合が湯へ行った留守、三七郎が小用にでも立ったとき、梁に這い登って細引で罠をこしらえて上から吊ったのさ。三七郎は華奢《きゃしゃ》な男だが、それでもあれを上から吊り上げられるのは、肥っちょのあの喜久治の外にはない」 「ヘエ、なるほど」 「それっ切りの話だよ。お百合の親許から、十八年間の養育料が来ると竹中十兵衛がうっかり漏らしたのを、お若がなんかから聴いたんだろう。十八年間の養育料は百両や二百両じゃない。それを横取りした上、お若が金持の跡取りで乗り込めば、皆んなうまい汁《しる》が吸える」 「……」 「それまで企らんだところへ、竹中十兵衛が現われた。私に智恵をつけられて、台本どおり実は黒雲源左衛門の娘などともっともらしくやった。あの人は仁体《じんてい》が良いから大概の嘘も本当に聞える。大した役者だったよ」 「ヘエ、呆れたもので」 「黒雲源左衛門なんて、そんな泥棒はあるものか、皆んなこしらえごとさ、——だが、これであのお百合さんは無事に大賀屋の跡取りになるだろう、お若に気のあった、お前には気の毒だが——」  平次はそう言って冷めた酒を八五郎に注《つ》いでやるのでした。   (完)